新米君

 そう言ってナナエはこっちを向いた。私はいっぱい涙を流していたから恥ずかしくなって顔を手で覆った。


「え? ごめん。泣かすつもりじゃ‥‥‥」


 私はそのまま首を横に振った。

「ごめんね。ずっと何にも知らなくて。知ろうとしなくて。ずっと自分の事しか見ていなかった。でもナナエがゴールした後、初めてナナエの心が少し見えたように思えたんだ。で、いたたまれなくなっちゃって。ありがとう。色々話してくれて」


「ナツはそれでいいんだよ。私はさ、そんなナツをいつも羨ましく思って見てた。周りの目なんか気にしないで、自分の目標に向かって一途に頑張れる。私なんか、人のご機嫌伺いながら、いい子でいたいって思っちゃうから。ありがとう。ほら、これ使って」

 ナナエは水色の可愛いハンカチを手渡してくれた。


「いい子でいたいって思うのも、きっとナナエの優しさなんだよ」

 こんな風に心にある事を言い合えて、ふっと気持ちが楽になった気がした。ギュルルルルとお腹が鳴った。ナナエにも聞こえちゃったかな?


 一人の若い店員さんと何となく目が合ったような気がして、ドキッとした。その人はこっちの方に来てくれた。注文聞きにきたのかな? って思っていたけど、カウンターの向こう側でカップを拭いている。


「お腹、すいてきたね。そろそろ頼もっか」

 私が「うん」と返事をすると、ナナエはその店員さんに言った。

「すみません。そろそろお願いしたいって兄に、あっ織田に伝えてもらえますか?」


「はい。かしこまりました。織田さんの妹さんですね。伺っております。少々お待ち下さい」

 その店員さんは足早に去っていった。



 最初のお皿を持ってきたのはナナエのお兄さんではなく、さっきの若い店員さんだった。

「お待たせしました。サラダでございます。農薬を使わない自家農園の野菜に、ドレッシングは体にいい油、えーっと、えーっと、いい胡麻オイルだったっけかな、を使用しております」

 

 横からナナエのお兄さんが出てきた。

「申し訳ございません。こいつ、新米のアルバイトで。使用しているのはエゴマオイルです。どうぞ、ごゆっくり」

 新米のウエイターさんは頭を叩かれ、ペコペコと頭を下げながら立ち去っていった。

 私達は顔を見合わせて笑った。

「いい胡麻オイルだって。高校生かな? 大学生かな? 何か可愛いね」

 ナナエが可笑しそうに言った。


 ナナエの様子を伺いながら、フォークを使ってゆっくりと味わいながらサラダを食べた。箸でがぶがぶ食べるいつものサラダとは違って、一つ一つの野菜の味がしっかりしていて、を使ったドレッシングがその味を一層引き立てている感じがした。

 

 その後、少量ずつヘルシーなお料理が運ばれてきた。

 たっぷりのしらすとルッコラと、少しのチーズが乗ったピザの生地には蕎麦粉が使用されていた。

 松の実の混ざったバジルソースのパスタは全粒粉で、食べた事のないお洒落な味がした。

 

 私達はナナエのお兄さんにしごかれながら一生懸命に仕事を覚えようとしている新米ウエイターさんの様子を見て笑いながら、「美味しい、美味しい」を連発して食べる事に夢中になっていた。


 最後にちょこっとデザートとカプチーノが出てきた。

「キャロブという粉とナッツを使ったチョコレート風味のケーキです。生クリームや砂糖といったお客様の天敵となるような物は使用していないのでご安心下さい。カプチーノはお客様のイメージに合わせてアートさせて頂きました」


「わー、可愛い!」と二人の声がハモった。

 ナナエのは、ハートの形をした四枚の葉っぱをつけたクローバー、私のは可愛い子犬の顔が描かれている。


「これ、お兄ちゃんのアート。アルバイトの時からこれだけは任されていたみたいで、好評らしいんだ」とナナエが言った。

 すっかり打ち解けた二人はたわいもない話で盛り上がっていた。


「さっきさ、新米君が真面目な顔で『生クリームや砂糖といったお客様の天敵』とか言ってたでしょ? 可笑しくなかった? 私、笑っちゃいけないと思って必死に堪えたんだけど、ずっと可笑しくって」

 ナナエはそう言ってケラケラ笑い出した。

「やっぱり〜! 私もずっと堪えてた」

 二人は爆笑しながらケーキに手を伸ばした。


「あ!」

 手を伸ばした時にシャツの袖がカプチーノにふれてしまった。シャツの袖とカプチーノを見て私は泣きそうになった。

 ナナエが貸してくれた綺麗な水色のシャツに白い泡と茶色いシミがくっきりと付いている。可愛い子犬の顔は無残な顔になってしまっている。

 その時、新米君が何も言わずにさりげなく新しいお手拭きを二枚テーブルに置いてくれた。

「あ、ありがとうございます」

 そう言って軽く頭を下げた私に、新米君は軽く微笑んでくれた。


 急いでお手拭きで袖を拭きながら

「ナナエ、ごめん。本当にごめん」と謝った。

「いいよ、それくらい。洗えば落ちるし。ナツ、顔が赤くなってるよ。新米君、優しいね。良かったね」

 ナナエは茶化すようにカプチーノを啜った。

 ちょっと崩れた子犬の顔も可愛いかったけれど、両目が横に伸びたように潰れていた。

 ふいにケンタの顔が浮かんだ。

「おい!」と睨まれたような気がした。


「ごめん。そんなつもり無いから」

 ケンタに言ったつもりだったが、ナナエが返してきた。

「そんなつもりってどんなつもり? 冗談だよ。ムキにならないで」

 私は恥ずかしくてたまらなくなった。

「ごめん」と小さく謝った。


 ナナエのお兄さんが上がる十五時まで、私達は色んな話をしていた。何だかあっという間に時間は過ぎてしまった。

「お兄ちゃんがね、今日は特別に奢ってくれるって。心配しないで」

 ナナエとお兄さんにそんなに甘える訳にはいかない。

「ダメだよ。沢山ご馳走頂いちゃったし」

 

 そう言う私にナナエは言った。

「また一緒に来て。これからはちゃんと割り勘で払ってもらうから。お願い」

 私は甘えさせてもらう事にした。

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