イノシシ事故

 大きな大きな黒い物体がものすごい勢いでこっちに突進してくる。

 私はその場に固まった。金縛りにあったように少しも身体を動かす事が出来ない。声さえも出ない。

「もうダメ」

 そう思った。


 目は固く閉じていた。

 死んだ? 私、死んだの? そんな自分の声が聞こえた。怖くて目を開ける事が出来ない。何分もそのままの状態でいたと思う。

 

 早く目を開けて!

 そんな声が聞こえたような気がした。

 怒る恐る、本当に恐る恐る目を開けてみる。目が開いた。どうやら私は生きているようだ。


 少し顔を上げてみる。顔が動いた。どこも怪我をしている様子はない。でも何だか寒気がする。そこには見てはいけない光景が広がっているような気がした。

 でも、見なきゃいけない。私は勇気を振り絞って辺りを見回した。


 やめてよ! う、嘘でしょ?

 

 ケンタが! ケンタが倒れている。只事ではない事がすぐに分かった。

「ケンタ! ケンタ!」

 泣きながら叫んだけれど、ケンタは何も答えてくれない。顔からひどく出血している。どうしたらいいんだろう。ケンタ、死んじゃってないよね? 死んじゃだめだよ。

 

 私がしっかりしなきゃ、と急に冷静になった。ケンタは意識は無いけれど、息はしてるようだし心臓も動いているようだ。

 携帯を取り出し、救急車を呼んだ。今いる場所とケンタの状態を話し、電話の声に従って応急処置をしながら救急隊員の到着を待った。


 血を止めなきゃ。止まってよ。何で流れてくるの。ケンタの目が。目が大変な事になってる。早く来て! 

 ずっと祈っていた。早く、早く! お願いだから早く来て。

 

 救急隊員が駆けつけてくれたのを見て、急に涙が溢れた。

「二人共よく頑張ったね」

 隊員さんが頭を撫でてくれた。ケンタは担架で運ばれ、怪我は無いけれど恐怖で動けなくなっている私を、別の隊員さんがおぶって救急車に運んでくれた。

 

 「死なないで! 死んじゃダメ! 何で? 何で助けてくれたの? 私が、私が全部悪いのに。私が死ねば良かったのに!」

 救急車の中で泣き叫ぶ私を隊員さんが優しく抱いてくれた。



 二日後にケンタの意識が回復した。折れた六本の肋骨は元に戻るだろうけれど、両目の失明は免れないだろうと知らされた。

 ありがとう。生きてくれてありがとう、ありがとう。何度も何度もそう思った。

 ごめんなさい。私は取り返しのつかない失敗をしてしまった。私のせいでごめんなさい、ごめんなさい。何度も何度もそう思った。


 あのケンタの目が。私が一番大好きだったケンタの目が殺られてしまった。走る事が大好きだと言った時のキラキラとした目が私を見つめてくる。どうしようもなく涙が溢れてきて、その目を振り払おうとする。

「ナツ、泣くなよ」

今度はケンタの優しい目が追いかけてくる。



 初めて面会を許されたのは事故から一ヶ月が経った頃だった。

 私は一人で病院を訪れた。ケンタは個室に入っていた。覚悟を決めて扉を軽くノックしてスライドさせた。ケンタはベッドに寝ているようだけどよく見えない。

 私は恐る恐る足音を立てないようにベッドに近づいていった。


「やあ、ナツ、来てくれたんだね」

 私はビクッとした。

「え? 何で分かったの? ケンタは見えないんでしょ?」


 慌ててケンタに近づいた。

 仰向けになってベッドに寝ているケンタの目には包帯が幾重にもガッシリと巻かれている。


「まあ、座れよ。そこら辺に椅子があるだろ?」

 私は「うん」と言って素直に椅子に座った。

「大丈夫? 痛いんでしょ? ごめんなさい。私のせいで‥‥‥」

 ケンタに会ったら何て言おうか、ずっと考えてきたのに、上手く言葉が出てこない。どんな言葉を使っても自分の気持ちは伝えられそうにないと思う。


「オレは大丈夫。ナツのせいなんかじゃねえ。ナツは大丈夫?」


 慌てて答える。

「わ、私は怪我ひとつしてないから。私の事なんて気にしないで。

 全部私のせいだよ。ケンタが山に行くのはもう少し待てって言ったのに、私は勝手に山に入ってしまって。何も考えずに瓜坊に近づこうとしたばっかりにこんな事になって。

 取り返しのつかない失敗をしてしまって。私はどうすればいいの?

 何だってやるから。ケンタの為に何だってやりたい。

 私が出来る事をやらせて。ねえ、どうすればいい?」


 ケンタの目は包帯に隠れているから表情が読み取れない。相当に痛いんだと思う。小さな声しか出せないのに、一生懸命明るく話そうとしてるのが伝わってくる。


「ナツ、オレが言う事、黙って聞いてくれる?」

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