楽園
太陽がじりじりと照りつけ、うだるような暑さのとある夏の日。いつもはにぎやかな教室に、たったふたつの人影。
「夏休みね、ノゾミくん」
「そうだね、月子」
風を通すために開け放たれた窓からは、夢に向かって汗を流す運動部員たちの声が聞こえてくる。それに負けじとセミたちは大合唱。
「ふたりっきりの空間に、汗ばむ若い男女……甘美なシチュエーションね」
「へんな言い方をするんじゃない。それよりも、いったいなぜ、夏休みの教室で膝を突き合わせてなくちゃいけないんだ? ぼくらは帰宅部なんだぞ」
八月。夏休み。長いようで短い、若者たちの青春のとき。
「それはノゾミくんのためなのよ」
「ぼくのため? どうして?」
「ひと月もわたしに会えなかったら、さびしくて死んでしまうでしょう?」
「ぼくはウサギか。まあ、ウサギはさびしいと死んでしまうって話、どうもうさんくさく思えるけど」
「それはガセネタらしいわね。なんにせよ、ノゾミくんに孤独死されると、わたしもかなしいわ」
「孤独死はさびしくて死ぬって意味じゃないぞ」
「わたしに会えなくてさびしい、というところにはツッコミを入れないのね」
月子がいたずらっぽく笑う。
「ツッコミどころが多すぎただけだよ」
望はそっぽを向いた。
「すなおじゃないのね」
月子が扇子を取り出し、勢いをつけてパっとひらく。白地の真ん中に描かれた真っ赤な太陽が、圧倒的な存在感を放っていた。
「日の丸の扇子とは、なかなかに渋いな」
「いいでしょう?」
「いいんだけど、もっと涼しげな柄がよかったかな。夏らしく風鈴とか、金魚とか」
「夏だからこその日の丸なのよ」
と言って、月子が自分をあおぎはじめた。
扇子の起こす微風が、月子のつややかな黒髪を、張りのある肌を、やさしくなでる。つうっと流れる一筋の汗が、首をつたって胸元へと落ちてゆく。
「──見とれちゃった?」
と、妖しい笑みを浮かべる月子。
「扇子にね」
「ノゾミくんのいけず……」
月子はしゅんとして、扇子で顔を隠した。
「しかし、暑すぎるなあ……異常気象ってやつか」
「異常気象は本当に『異常』なのかしら?」
パチンっと扇子を閉じて、月子が言った。
「異常だから異常気象って呼ばれてるんじゃないの?」
「ときにノゾミくん。正常な地球環境とはなにか、異常ではない気候とはどういったものなのか。キミに説明できるかしら?」
「また難しい質問を。うーん……気温は高すぎず低すぎず、大きな自然災害の起こらない環境、ってところかな」
「まったくもって予想通りの、降水確率ゼロパーセントな解答ね」
「比喩表現が予想外で、しかも意味がわからないよ」
「ノゾミくん。それは正常な環境とはいえない。いえ、そもそも正常な地球環境など存在しないのよ」
「どういうこと?」
ノゾミは頭の上にはてなマークを浮かべた。
「人類の目指す正常な地球環境とは、『ヒトという生き物が住みやすい環境』という意味なのよ。ヒトが心地よく感じる気温。それなりに晴れて、ほどほどに雨が降る。地震も洪水も大雪もない。ヒトにとって理想的な環境」
「わるいことには思えないけど」
「よく考えてみて。本来あるべき環境といものがあるとすれば、それは地球が生まれたばかりの灼熱の環境になるのではないかしら。あるいは、熱が冷めて母なる海に命が芽吹きはじめたころの地球に」
「それはさすがに言いすぎだと思うよ。あくまでも人の活動によって異常気象が起こるようになったから、人が破壊するまえの環境にもどそうとしてるんじゃない?」
「いいえ、ちがうわ。人類の存在は関係ないの。ノゾミくん、スノーボールアース仮説をご存知かしら?」
「スノーボール……雪玉ってこと?」
「そう。地球全体がすっかり氷に覆われてしまい、ひとつの雪玉のようになること。地球は過去に何度も、そのスノーボールの状態になったことがあるらしいわ」
「へえ、知らなかった。熱帯地方まで寒冷化するなんて信じられないな」
「逆に、恐竜の時代はいまよりもっと高温で、植物も昆虫も恐竜も、みんな巨大だったわ。人類が存在しなくても、地球環境は激変してきたのよ。つまり、地球環境は変化するほうが自然であり、『これが正常な環境だ』と決めつけることは、自然に背く行いと言えるの」
「言われてみれば、たしかに」
「地球のため、地球に暮らすすべての生き物のため。そんなご大層な大義名分を掲げながら、そのじつやっていることは、すべて自分たち人類のため。環境保護だの持続可能ななんちゃらだの、とどのつまりは偽善者たちの自己満足と金もうけに過ぎないのよ」
「いつにも増して辛辣だ」
「自分たちにとって都合のいい環境につくりかえる。それはもはや惑星改造となんらかわらない。人類はすでにテラフォーミングを行っているの。この地球を、ヒトの楽園にするためにね」
「なるほど、一理あるかも──ん? なに書いてるんだ?」
いつの間にか、月子は二冊のノートを机にひろげて熱心に書き写していた。
「なあ、月子。もしかしてそれ、ぼくのノートじゃない?」
「さすがね、ノゾミくん。学校に来るついでに自習のための勉強道具を持ってく
る。キミならそうすると信じていたわ」
「こんなにクソ暑いなか、ぼくを学校に呼び出した本当の狙いは、宿題を写すためだったのか!」
「まあまあ、落ち着きなさい。減るものではあるまいし。はい、とりあえず終わったから返すわね。また続きをやったら見せてちょうだい」
「ふざけんな。自分でやれ」
「ノゾミくんの精神環境に変化がみられる。大気……もとい情緒不安定ね。いますぐノゾミフォーミングが必要と見たわ」
「だれのせいだと思ってるんだ」
「さあ、行きましょう」
ささっと荷物をまとめて、月子が立ちあがった。
「どこに?」
「カフェに。宿題を写させてくれたお礼に、なにか冷たいものでもおごってあげる」
「クーラーのきいた喫茶店に冷たい飲み物か……」
「そこはもう──楽園ね」
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