GとK

「ノゾミくん。『ゴキブリ』という言葉を聞いて、どう感じるかしら?」

「またいきなり訳の分からんことを。どうと聞かれても……ふつうに気持ちわるいな、とかそんなところだけど」


「わざわざ聞くまでもなく、ユーモアのかけらもなく、路傍に転がる小石のような返答をありがとう」

「どうしてぼくはディスられてるんだ? 今回は正直に答えただけなのに……」


 いたって平和なお昼の教室。午前の授業から解放された生徒たちの心安らかな時間。そして、月子と望による、いつものありふれたやりとりである。


「いいえ、けなしているのではないわ。本当に感謝しているのよ。望んでいたとおりの答えが返ってきてくれてね。『おいしいそうだ』とか言われたらどうしよう、というちょっとした不安と期待もあったのだけど──」

「そんなマイノリティな嗜好は持ちあわせてないよ。というか期待するな」


「ノゾミくんが持っているのは特殊性癖だったわね。たしか……縛られるのがお好みだったかしら?」

「平然とデマを流すんじゃない」


「あら、ごめんなさい。縛るほうだったわね。でも、残念だわ。わたしに緊縛趣味はないから、ノゾミくんの欲求を満たしてあげることはできそうにないの」

「いいかげんにしろ。悪いウワサはすぐに広まるんだからな。みんなに勘違いされたら、責任をもって誤解を解くんだぞ」


 まわりのクラスメイトたちから奇異の視線がむけられるのを、望はその身にひしひしと感じるのであった。


「そんな……『責任をとって一生面倒を見ろ』だなんて……大胆ね、ノゾミくん」

「そういう責任じゃないから」


「ノゾミくんの特殊性癖はさておき、話をもどしてもいいかしら?」

「月子が脱線させたんだろうに──好きにしてくれ」


 望は疲れた様子で言った。


「わたしはいま疑問に思っていることがあるの。それはゴキブリという語の気持ちわるさが、ゴキブリという名前の響きからくるのか、それともゴキブリの存在そのものからくるのか、ということよ。もしゴキブリの名前がゴキブリではなく──」


「月子、ちょっとまった」

 望はひらいた手を月子の顔のまえにかざして制止する。


「ん?」

 言葉をさえぎられた月子は不思議そうに首をかしげた。


「時と場所を考えてみな」

「あっ……」


 月子はすっくと立ちあがり、「失礼しました」と一礼した。まわりではクラスメイトが昼食を食べているところだった。


「みんなデリケートね。黒くてカサカサと素早く動くアイツの名前を、お食事中にちょっとばかり連呼しただけだというのに……」

「いや、月子が図太いだけだな。ふつうは気分のいいもんじゃないよ」


「それにしても困ったわね。名前を呼べないと話しづらくてかなわないわ」

「よくある略称をつかえば?」


「そうね。では、GKと呼ぶことにしましょうか」

「サッカーゴールを守ってそうだな。そこはGでいいんじゃない?」


「だって、ゴキと略することはよくあるでしょう? それならGKと呼んでも不思議ではないと思うのだけど」

「たしかに一理ある……か? でもまあ、GKだとゴールキーパーみたいだし、やっぱりGにしとこうよ」


「そう。わかったわ」

「あれ? ずいぶん素直に受け入れるのな」


「抵抗したほうがよかったかしら。そのほうが縛りがいがある?」

「その話はもういい」


「なぜだか今回はやけに話がそれるわ」

「すべての原因は月子にあるからな」


「今度こそ話をもどしましょうか。Gという語の気持ちわるさが、名前由来なのか、存在由来なのか、というお話だったわね」

「タマゴが先か、ニワトリが先か、みたいな」


「そういうこと。もしもGの名前がKだったとしたら、Kという語が気持ちわるく感じられるのかしら。逆にKの名前がGだった場合には、Gという語がかっこよく思えたのかもしれないわね」

「Kってなんだ?」


「一本角のアイツや、アゴではさむソイツのことよ」

「……ああ、カブトムシとクワガタのことか。そっちまで隠す必要ある?」


「あるわ。Kは名前を呼んでもいいだなんて、それはG差別ね。KはよくてGはダメな道理はあるのかしら?」

「そりゃあ、カブトムシとかクワガタはかっこいいからね。少年たちはみんな憧れるもんだろう。子ども向けアニメとか特撮のモチーフにもよく使われるし。Gはせいぜい敵役の怪人にしかならないよ」


「わかっていないわね、ノゾミくん。それは外面しかみていない証拠なのよ」

 月子はわざとらしく肩をすくめてみせた。


「どういうこと?」

「Kだって幼虫のころはあのウニョウニョでしょう? 成虫になってもひっくり返して裏を見れば、それはそれはおぞましいものよ。虫ぎらいの人からすれば、GもKも本質的な差はないのかもしれないわ」


「たしかに昆虫のおなか側はとくに気持ちわるいよな」

 望はうなずいた。


「もしもGの名前が違っていたら、Kと同じような待遇を受けられたかもしれない。というわけで、ひとつ実験をしてみたいと思うの」

「実験?」


「Gがもっと愛嬌のある名前だったら愛着が持てるかもしれない、という実験よ。はい、これどうぞ」

「ああ、どうも」


 月子が手渡してきた紙袋を、望はよくわからないまま受け取った。箱のようなものが入っているようだ。


「その子はココアちゃん。見た目からとったかわいらしい名前よ。大切にお世話してあげてね。愛着を持てたか確認するために、あとで観察日記を提出してもらうから忘れずにね。それじゃ」


 と一方的にまくし立ててから、月子はお弁当の包みと水筒を手に取り、すっと教室を出ていった。


「ココアちゃん? なんのこっちゃ──」


 望は紙袋を持つ手にほんのわずかな振動を感じた。なにかが動いているような振動。さらに、かすかではあるがカサカサという音も聞こえてくる。


「これはまさか……月子のヤツめ、突きかえしてやらないと!」

 望は勇んで立ちあがった。


「あっ──」

 そのとき、望の手から紙袋がスルっと滑り落ちてしまう。


 紙袋のなかには昆虫の飼育ケースが入っていて、床に落ちた衝撃でフタがはずれてしまった。そのなかにいたココアちゃんという黒い悪魔が野に放たれる。


 いたって平和なお昼の教室。午前の授業から解放された生徒たちの心安らかな時間──のはずだった。ココアちゃんの登場によって平穏無事な教室が恐怖のどん底に叩き落とされたことは、あえて語る必要もない。

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