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●
ペダルを踏む。身体が前に引っ張られ、景色が後ろに流れていく。
踏み込んだ分だけ、風が吹く。
「うおおおおっ!」
雄叫びを上げながら自転車で爆走する俺をすれ違ったおばちゃんがすごい目で見てきた。でも気にしない。
俺の目には、あの夏の形をした雲しか映っていないから。
***
「夕立ってのは夏の夕方に不定期に降る大雨のことだ。地表面の空気が暖められて生まれた上昇気流が積乱雲を形成して雨を降らせる」
放課後の理科室で理人はフラスコで何かを掻き混ぜながら言った。夕立の原理とか正直よくわからないので何も言わずに彼の話を聞く。
「だが条件が揃うかは運だ。しかも夕立が降ってもその範囲は狭い。自分がちょうどそこにいなければ出会えない。つまり夕立に遭遇するのは確率高めの奇跡ってことだ」
「奇跡に確率なんかあっていいのかよ」
「それは言葉の綾だ。何にせよ、人間の力でどうこうできるもんじゃない。気象レーダーでもあれば別だけどな」
人の力じゃどうにもできない。
つまり、俺が夕立に出会えるとすれば。
「神が自分の味方かどうか試してみればいい」
神が味方ならお前も心置きなく告白できるだろ。
理人はそう言って、もう一度くるりとフラスコを回した。
「夕立を集めて物語を進めてみせろ」
●
「――あれだ」
自転車を漕ぎながら俺は遠く前方を見ていた。
少し先にある空き地に影が差している。周辺に高い建物のない広場でその影は不自然で、超自然的だ。
俺はスラックスのポケットの中身に手で触れる。小さな円筒形のシルエットを指先で確認して、前カゴに入れた折り畳み傘を視認した。
「よし」
小さく呟き、ペダルを漕ぐスピードを落とさないまま影に入る。
空き地の端に自転車を止めて、ポケットから取り出したガラスの小瓶の蓋を開けた。
***
「ここにガラス瓶が五本ある」
黒い天板に小さな瓶を一列に並べて、理人は広げた右手でその数を示した。
「一回夕立に遭遇するくらいなら誰でもできるからな。それじゃ神が味方になったなんて言えない。証明には複数回の成功が不可欠だ」
「そのための瓶か」
「ああ、この瓶を夕立でいっぱいにしてみせろ。もちろん一回の夕立につき一瓶だ」
夕立の終わり際では瓶を満たさない可能性がある。つまり五回以上の夕立に遭遇しなければいけないということか。
「自転車は使っていいか?」
「いいだろう。どうせ自転車で行ける範囲なんて限られてる。ただ授業はサボるな。時間は放課後になってから、十九時に閉まるまでに理科室へ戻るのをルールとする」
「ああ、わかった。でもそんなにうまく瓶に雨が入るかな」
「じゃあこうすればいい。南雲、お前傘持ってるか?」
「え、あるけど」
俺がリュックの中から青い折り畳み傘を差し出すと、理人は受け取りそれを開く。そして引き出しから取り出した錐で何の躊躇もなく傘の頂点を突き刺した。
「あーっ! 俺の傘に何してんだ!」
「ほらこれで夕立が集まる。傘漏斗だ」
「乱暴すぎるだろ。傘の使い方を勉強しろ」
「快適な読書タイムを乱した報いだ」
そう言って理人は穴の開けた傘を逆さにして頭上に掲げた。そういやこんなアンテナあったな、と思いながら見ていると、彼は「それと」と話を変えた。
「夕方の通り雨のことを『夕立』って呼ぶのは夏だけだ。この意味わかるよな」
傘漏斗を閉じて、理人はいつものように事務的に告げた。
「この夏の間に夕立を集められなけりゃ、お前は今年彼女に告白できない」
その間に誰かに取られたら神に見放されたと思えよ。
彼の不吉な言葉を聞いて、俺はすぐさま理科室の窓を開けて空色を窺った。
●
ぽつり。
半袖から伸びた腕に細い水滴が乗った。それからひとつふたつと頬や首元に同じ感覚を得る。
来る。もう七度目ともなれば流石にわかる。
――神様が、来る。
そう思った直後、小さかった雨粒は急激に大きさを増して群れを成し、黒い雲から轟音と共に滝のような豪雨を降らした。
「くっ!」
俺はすぐさま折り畳み傘を開く。その傘の先端を持って、逆様の状態で頭上に構える。バチバチと表面で水が弾ける音がして、放物線に沿って雨水が傘の先端に集まっていく。
そして先端に開いた穴から落ちてくる夕立をガラス瓶に流し込んでいく。雨の勢いで左右に振られる傘を必死に押さえて瓶の口に合わせる。
逆さに持ち上げた傘は何も守ってくれない。シャツやスラックスは濡れて汗だくの身体に貼り付き、靴下の中にまで水が入って気持ち悪い。
でも、俺の目は瓶にしか向いていなかった。
濡れてまとわりつく前髪を払って目を見開き、ガラスの壁を上っていく境界線を見つめる。
「……これで五本だ」
俺は額から流れる雨粒を拭いながら、透明に満ちた瓶の蓋を力いっぱいに閉めた。
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