アブノーマル 第7話 家族、絶望
次の日、成美が仕事から帰ってくると、家の前に一人の女性が立っていた。
「成美、久しぶりね」
「お母さん……」
この女を見た途端、成美は呼吸が浅くなった。成美は母親から愛されていないと思っていた。
成美と茜の母親は、元ピアニストだ。しかし、母親も鳴かず飛ばずで特に売れる事ができず、会社員である父と結婚し、成美と茜を産んだ。
自分の夢を娘達に託すかのように、成美がヴァイオリンを始めると、どんなに成美が泣き叫んでも、練習室に閉じ込められる事が何度もあった。しかし、茜は違った。母親は最初、茜にはピアノをやらせようとした。しかし、茜はピアノには見向きもしなかった。母親が茜をピアノの椅子に座らせようとすると、あまりにも思いっきり泣くので、母親も諦めて、茜に音楽を強要しなかった。しかし、成美がヴァイオリンで結果を出し始めると、「私もお姉ちゃんみたいに何かやりたい!」と突然言い出し、茜が十歳になった時に、突然チェロを始めたのである。母親は、ピアノに見向きもしなかった茜に全く期待をしていなかった。しかし、チェロを始めてすぐに、茜は才能を開花させていった。茜が練習室に泣き叫びながら閉じ込められる事は、一度もなかった。茜はいつもリビングでチェロを弾き、父親や母親、祖父母が来た時にも率先して演奏して見せた。一方成美は、一度も家で演奏を聴かせた事がなかった。成美はどんなに嫌がっても練習をさせられたのに対し、茜は好きな時にしかチェロを弾かない。何よりも誰かに聞いてもらうことが、楽しいようだった。
そんな茜が音高に入学し、ミュンヘンへの留学が決まった時、母親は、どんな時よりも喜んだ。成美が小学校の時のコンクールで優勝した時の、何倍も何倍も喜んでいたのだ。その時から、成美は、自分は母親に本当に愛されていない事を確信した。母親が愛しているのは茜だけ。自分の事は見向きもしていないのだ。長年成美はそう思っていた。
「ちょっといいかしら」
成美の母親は、家に入ってきた。史郎はまだ帰ってきていない。
「お母さん、警察から茜の事聞いたの……?」
「もちろんよ……」
「お母さんも、茜と連絡が取れないの?」
「ええ、あなたも取れないのね……茜のパートナーのダニエルくんにもメールをしてみたわ。でもダニエルくんも、何日も茜と連絡が取れてないんですって。でもダニエルくんが仕事をしている時は、二人とも、普段からそこまで連絡を頻繁にとっているわけではなかったそうよ」
茜のパートナーはダニエルという名前だったのか。ずっと日本にいる自分からすると、なんともふざけた親戚ができたものだ、と成美は思ってしまった。おまけに、頼りのパートナーともあろう者が、茜の居場所を把握していないなんて……使えないにも程がある。
「お母さん、英語なんてできたの?」
「お父さんが書いたのよ」
我ながらアホらしい質問をしたな、と成美は思った。
「茜……どうしてそんな事を……いったいどういうことなのかしら……」
母親は我慢していた涙を流すかのように、両手で自分の顔を覆った。
「お母さん、茜を信じてないの? 茜が人殺しなんて、するわけないじゃない。警察が探してるんだから、すぐ見つかるわよ。茜、日本にいると思うし」
「どういう事?」
「生前凪ちゃんが言ってたの。茜の事街で見かけたって。凪ちゃんは茜の事よく知ってるから、見間違える事ないと思う」
「凪ちゃんの事も……残念だったわね」
今更どのツラ下げてそんな事を言っているのか、成美にはわからなかった。この母親は、凪が家に来るのをなぜか嫌がっていた。茜の彼氏は呼んでも平気だというのに。成美は母親の顔を見ているだけで、いろいろな事を思い出して、イライラしてきてしまった。
「お母さん! 何しに来たの?」
「成美の様子を見に来たのよ……凪ちゃんや、周りの子が亡くなって、茜まで行方不明で……具合も悪いって史郎から聞いてたから」
「お母さんこそ大丈夫なの? 茜がどこにいるか心配じゃないの?」
「心配に決まってるじゃない! 頭がおかしくなりそうよ……」
しかし、成美は少し驚いた。母親は、茜の事にしか関心がないものだと思っていた。自分の事も心配になる事があるなんて、思いもしなかったのだ。
「成美、ヴァイオリン楽しい?」
「なんで? どうして今更そんな事聞くの?」
「テレビ見てると……あなたが辛そうな顔をしているから……」
成美はその言葉を聞いて、頭に全身の血が駆け巡っていくような思いだった。誰のおかげでこんな思いをしていると思っているのだ。あんなに嫌だったヴァイオリン。しかし、自分にはヴァイオリンしかなかった。だから今もヴァイオリンを弾いている。テレビカメラの前では満面の笑顔を浮かべていたはずだ。なぜこの母親に、そんな事を言われなければいけないのか。成美は湧き上がってきた怒りを抑える事ができなかった。
「どうして! お母さんにそんな事言われなきゃいけないの! 私がどんな気持ちでいままでヴァイオリン弾いてきたと思ってるのよ! どんな気持ちでテレビカメラの前に立ってると思ってるの! ヴァイオリンやめたら、どうやって生きていったらいいのよ‼︎」
成美は初めて母親に向かって声を荒げた。三十五年も生きてきて、初めての反抗期が来たようだった。成美は今まで何一つ、母親に反抗した事はなかった。どんなに辛くても、母親に甘えることすらできなかったのだ。そんな長年抱えてきた気持ちが今、一気に溢れ出してきてしまった。
「帰ってよ! お母さんの顔なんてもう見たくもない! 帰って‼︎」
成美は無理やり母親を玄関の方へ追いやり、ドアの外へ追い出した。あんなに弱り切っている母親の姿を初めてみた。茜がいなくなって、突然自分の方に関心が向いたのか、成美は混乱していた。
リビングのソファに寝転がっていると、史郎が帰ってきた。
「成美……? 大丈夫か……?」
「おじさん……茜……どこ行っちゃったんだろう……」
「……」史郎は答える事ができなかった。
「さっきお母さんが来たの、私の心配して来たって。もう茜の事はどうでもいいのかな……」
「お母さんは、お前たち二人とも愛しているんだよ……」
「……」
成美は茜の夢を見た。小さい頃、茜はいつも成美の足元を追ってきていた。四歳で始めたヴァイオリン。まだ下手くそなヴァイオリンを弾いている成美も見て、一歳の茜はいつもキャハキャハと笑っていた。
茜に一度、なぜ突然チェロを始めたのか聞いた事がある。茜は「お姉ちゃんと共演するためだよ!」と言った。その言葉が成美には辛かった。茜と共演なんて、あり得ないと思っていた。私たちは、ヴァイオリンや、チェロを弾いていなければ、もっと仲のいい姉妹になっていたかもしれない。そんなことを成美は思っていた。
茜……どこへ行ってしまったの……?
「はい、もしもし?」
翌朝、電話がなった。あの時やってきた刑事からの電話だ。
「茜さんの居場所が判明しました」
「え! 本当ですか⁉︎」
「茜さんは、二日前、チューリッヒの自宅で遺体となって発見されました」
成美は声が出なくなった。茜が死んでいる……? それは予想だにしない事実だった。
「茜さんのご遺体は……死後一ヶ月は経過していると思われます」
茜が死んだ……おまけに一ヶ月も前に……今まで見つからなかったのかと思うと、茜は死んだまま一人で一ヶ月もそのままにされていたのか。想像するだけで頭がおかしくなりそうだった。
「茜は……なぜ……死んだんですか?」
「……殺害されたと思われます……」
その日のうちに、成美と史郎、そして父と母は警察に呼び出された。茜の遺体は日本に帰ってきていた。しかし、それはすでに一ヶ月も経過していたため、とても目にできる物ではなかった。
母は泣き崩れ、父も母を支えようとしながら大粒の涙を流している。成美も両親の後ろに、史郎に支えられる形で、立ち尽くしている。
警察の話しでは、茜は何者かによって何度も刺された後、クローゼットの中に押し込まれていたそうだ。仕事も長期休暇を取り、パートナーも出張で出かけていたため、長いこと発見されなかった。今回の一連の事件で、茜に殺人容疑がかかったため、外務省、現地の警察に問い合わせたところで、遺体が発見されたそうだ。
成美は茜が苦手だった。小さい頃から、何もかもを茜に奪われた気がしていた。しかし、突然海外で何者かに殺されたあげくに、一ヶ月も発見されなかった。その上殺人容疑をかけられていたなんて、成美は茜が気の毒で仕方なかった。今まで何の不自由も挫折もなく育ってきた少女が、たった三十二年の生涯を閉じなくてはいけなくなった時、それは最悪の結末であるような気がした。血を分けた、たった一人の妹。今までこんなに茜の事を想う事はなかったな、と成美は気付いた。なるべく避けて通ってきた茜との関係。亡くなってからこんなに茜を想う事になるなんて、世界は非情だ。成美は天井を見上げた。警察署の天井はグレーで暗くて、絶望という名を具現化したような、そんな場所だと思った。
成美はここ一ヶ月で、四人の人間を亡くした。みんなみんな自分の大切な人たちだった。
成美はヴァイオリンケースに手をかけた。ケースの中の弓を差し込んでいるところに、凪との写真がはさまっている。成美はその写真を破ってゴミ箱に捨てた。
ヴァイオリンを弾くと、今までに感じた事のないような、しっとりとした音が出た。今の成美は全てを失ったような気がしていた。しかし、どんなに辛かった時も、嬉しかった時も、このヴァイオリンが自分の隣にいつもいた事を思い出した。自分の弾いている旋律が、成美の心を癒していくような気持ちになった。成美はヴァイオリンをベッドの上に置くと、涙を流した。
「うわああぁああぁん」
今までせき止めていたものが決壊したように、成美は泣いた。悠理が死んだ時、凪の葬式に出た時も、涙を流す事はなかった。しかし、今成美は大粒の涙を流して泣いている。子供の時から辛かった事も、全てを吐き出すかのように、成美は泣いた。そのまま成美は泣き疲れたように眠りについてしまった。
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