アブノーマル 第4話 安曇凪

「成美! 久しぶり!」

「凪ちゃん! 元気だった?」

 オーボエ奏者の安曇凪あずみなぎも高校の同期であり、成美の唯一の理解者だ。月に一度はこうしてランチを食べたりお茶をしたりしている。凪は東京のオーケストラに就職していて、あまり仕事で一緒になる事はない。事件からは一週間ほど経過していた。

「成美、悠理の件……聞いた?」

「もちろん……ニュースで見たよ……お葬式の案内とか来てないよね?」

「家族だけで行うみたい。事が事だったし……」

「実は私、あの事件の前日、悠理と一緒の本番だったの……」

「え⁉︎ 嘘でしょ……その時は何も変わった様子はなかったの?」

「もちろん! 元気だったよ……」

 悠理があんな残虐な事件に巻き込まれるなんて、同期の間でも戦慄が走っていた。成美は悠理の事は好きではなかったが、まかりなりにも一番多感な時期を一緒に過ごしてきた、いわば同志だ。ショックは隠しきれない。

「辛いよね……」

 凪も悠理とそこまで仲が良い訳ではなかったものの、辛そうにしていた。涙はもう全て流し終えた後らしい。凪は一度大きくため息をつくと、目線を成美に戻し、話し始めた。

「そういえば、この間茜ちゃん見かけたよ? 帰ってきてるの?」

「え? ほんと?」

 そういえば、あれ以来茜からの連絡は無い。帰国する時には連絡しろと言ってあったのに。

「そういえば、先月、近々帰国するって連絡あったけど、それ以来何にも言ってこないよ、何勝手に帰ってきてんのよ、あいつ」

「あはは、いや、なんか急いでるみたいだったから、声かけられなかったんだけどね、よろしく言っといてね」

「うん、わかった」

 なんという事だ。茜が連絡もなしに日本に帰ってきているなんて、これは一大事と言っても過言ではない。茜は一年に一、二度、日本に帰国するが、迎えに来てだの、何時に着くだの、今空港に着いただの、うるさいくらい家族全員に連絡してくる奴である。それが、一人おとなしく帰ってくるなんて。実家にいるのだろうか。しかしこちらから連絡するのもなんだか癪な気がしたし、会わないまま茜がチューリッヒに帰ってくれるのならば、それは御の字だ。

 今日は仕事が無いので、凪とお茶をした後、凪のオーケストラのコンサートを聴きに行く予定だ。今日の目玉は、ブラームスの交響曲第二番。オーボエが大活躍する。凪の勇姿を見るのは久しぶりだ。

「凪ちゃん、緊張してる?」

「ううん、もう何回も吹いてるもの。大丈夫よ」

 凪は余裕綽々そうだった。凪はいつも自分に自信を持っている、高校の時からそうだ。凪はいつも成美の憧れの人間でもあった。

 高校生の時、成美の成績は得に良くはなかった。日本全国から集まる都内の国立こくりつ音楽高校に入学はできたものの、そのレベルは半端ではなかった。一学年に一クラスしかなく、全校生徒が顔見知りであるような小さい学校である。成美は四歳の頃からヴァイオリンを始めた。それから母親の言いつけを守り、ずっと辛い練習を続けてきたが、それでも周りについていくので精一杯だった。そんなコンプレックスもあってか、成美は周りのヴァイオリンの生徒たちとは、あまり仲良くする事ができなかったのだ。

 そんな時にいつも声をかけてくれていたのが凪だった。凪は、中学入学と同時に、吹奏楽部に入部した事がきっかけでオーボエを始め、わずか三年で音楽高校に入学する事ができた。学校では成美とちがって、いつも明るく、凪の周りにはいつも多くの人がいたのだ。

「凪ちゃん、がんばってね」

「うん! ありがとう、成美もコンサート楽しんでね!」


 オーケストラの中で朗々とソロを演奏する凪は、ひときわ輝いて見えた。成美は同じステージに一人で立った事すらある。しかし、あの大人数のオーケストラの中で、座っているだけで凪には存在感があった。


「凪ちゃん!」

「成美! 待っててくれたんだ!」

 成美は楽屋口で凪を待っていた。凪の姿がいかに輝いていたのかを伝えたかったのだ。

「凪ちゃん、夜ご飯も、一緒に食べに行かない……?」

 成美は遠慮がちに聞いた。

「ああ……ごめん、旦那が待ってるからさ、明日も朝からリハで早いし……今日はちょっと疲れちゃったし、早く寝てまた明日に備えないと……」

 凪が結婚したのは、五年前。成美も凪も三十になった時の事だった。凪は男とは長く付き合うタイプだったが、前の彼氏とは大学時代に合コンで知り合った別の大学の男で、二十歳の時から約八年間付き合っていた。成美も凪の彼氏の事はよく知っていた。しかし、社会人になると、凪はオーケストラだけでなく、他にコンサートを行う事も多かったので、不規則な生活。公務員として役所で働く彼とは、なかなかにすれ違った生活をしている事が長かった。八年もすると、二人とも冷めてしまったようで、いつの間にか二人の間の歪みは大きくなり、別離の道を選んだ。成美はすっかり、凪はその彼氏と結婚すると思っていたので、別れたと聞いた時には、極端に驚いたものだ。

 一年ほど経って、凪はあっさりと高校の先輩であった安曇先輩と結婚をし、姓も川島凪かわしまなぎから、安曇凪へと変えてしまった。安曇先輩も、高校時代の成美のことを気にかけてくれた先輩だった。成美も安曇先輩の事を慕っていた。そんな大好きな先輩と凪の結婚を当時の成美は大変喜んだ。結婚式にも、もちろん出席して、高校の同期たちと演奏をした事を昨日のように思い出す事ができる。

「そうだよね……ごめんね、明日も頑張って!」

「成美もだよ! テレビよく見てるからね! またいつでも連絡してよ、また会おうね!」

 凪はいつも通り、笑顔でその場を去った。

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