アブノーマル 第3話 事件
次の日、成美は史郎に勧められた五名メンタルクリニックを訪ねる事にした。誰も気づかないような裏路地にある古びたビルの中に入っているようだ。うさんくさいビルだと思ったが、エレベーターを上がってクリニックの正面まで来たところで、成美の足が止まった。クリニックの中はどうやら綺麗なようだが、自動ドアの外から、何やらオレンジ色の髪をした威圧感に溢れた看護師のような女が、受付に頬杖をつきながら座っているのが見える。
「どうしよう……やめとこうかな……」
その女の姿を見て、成美はクリニックに入る足取りが重くなってしまった。
嫌な夢を見た。体中汗をびっしょりかいて目が覚めたが、どんな夢を見ていたのかは覚えていない。今日は週末に行われるリサイタルのリハーサルがある。成美は重い頭をひきずるようにベッドを降り、出かける支度をした。
会場に着くと、すでに共に演奏する仲間たちが待っていた。
「なるみ、遅いー」
「ごめんごめん、ちょっとだけ寝坊しちゃって」
「成美! そこ音だしすぎ! ちゃんとバランスとってよ!」
「……ごめん、わかった」
このリサイタルは成美のものだ。悠理はいち共演者というかゲスト出演に過ぎない。だいいち、今回の共演だって、スタジオミュージシャンとしての地位を確立しつつある悠理との共演を、事務所が勝手に取り付けたものだった。
高校の時から、悠理は成美にファーストヴァイオリンを弾かせる事を許さなかった。同じ門下生である事もあり、二人で演奏させられる機会も多かったが、いつも成美がセカンド、悠理がファーストなのだ。しかし、今回は成美主体のリサイタルであるため、成美がファーストを弾いている。悠理はその事だけでも気に入らないようだ。ピアニストの
リハーサルが終わると、悠理は満足していないようだった。特に何も話を交わす事もなく「お疲れさま」とだけ投げ捨てるように言って、楽器ケースを担ぎながらホールの外へ姿を消した。成美は、なぜ自分のリサイタルの練習で嫌な気持ちにさせられなければならないんだ、と思ったが、剣崎さんが成美の肩を優しく叩いたので、仕方が無いような気持ちになった。
リサイタルは大好評だった。今日もチケットは完売、満員の観客の前で、成美は二時間強のプログラムを弾き終えた。今日はテレビや雑誌の取材は入っていないが、リサイタル後にCD販売と共にサイン会がある。成美は楽屋で共演者たちに軽く頭を下げたのち、ドレスのままロビーへ出て行った。すでに長蛇の列ができている。
「宮脇さん、すばらしかったですよ」
「ありがとうございます! お楽しみいただけましたか?」
成美のリサイタルには、何度か足を運んでくれているファンも多いが、この男は初めて見る。細い眼鏡をかけた蛇のような男だなと成美は思った。
「あなたの叔父様の勧めで今日は来たんです。クラシックはいいですね、落ち着きます」
「叔父に? もしかしてアンサンブルのお客様ですか? それは、親戚共々ありがとうございます」
「五名竜二です。五名メンタルクリニックという病院を経営しているのですが」
この男だったのか、史郎に精神科の名刺を渡したのは。あの時クリニックの手前まで行ったが、中に入らなくて良かったな……と成美は思った。
「宮脇成美さん、あなたの幸せを祈っています」
「……? ありがとうございます……」
変な男だ。あんな男には関わってはいけない、成美は本能で感じ取っていた。
また、ひどい夢を見た。恐ろしい夢だ。その内容は覚えていないが、非常に心地の悪い気持ちになった。体中が痛い。昨日の疲労が完全には取れていないようだ。外はもう夕陽が差し込んでいる。こんな時間まで寝てしまっていたなんて……成美はベッドでゴロゴロしながらテレビをつけた。
「速報です。東京都杉並区荻窪のマンションで、女性の遺体が発見されました。被害者は、フリーランスミュージシャンの秋本悠理さん三十五歳で、警察は、殺人の疑いで捜査を続けています——」
「……えっ……?」
成美は突然の事で、頭がすぐには働かなかった。まさか……名前を聞き間違えたのかもしれない、そもそも昨日一緒にいた悠理ではないかもしれない。そのままニュースを見続けていると、悠理の写真が煌々とテレビ画面に映し出された。そんな……悠理が死んだ。成美は全く実感が湧いていなかった。おまけに殺人事件って……ニュース番組はその遺体発見現場の様子を事細かに説明しようとしたが、そんな事は聞きたくなくてテレビを消した。
昨日は、サイン会が終わった後、共演者や、スタッフのみんなは先に打ち上げに向かった。成美とマネージャーの二人だけが、後から合流した。夜も遅かったので、二次会をやることもなく、打ち上げが終わると、みんなそれぞれ帰宅したはずだ。ニュースで言っている事が本当ならば、その後に自宅で殺された事になる……あの後に一体何があったのだろう。悠理は誰かと家にいたのだろうか。考えただけで背筋が凍るような思いだった。
悠理の事件は音楽界だけでなく、日本中に激震を走らせた。あまりに凄惨な殺され方をしていたため、ニュース番組でも連日この事件の事を報じ、マスコミは、音楽界の人間たちにも幾度となくインタビューを求め、悠理の人間性について聞きまわっていた。悠理の事を良く言う者も、悪く言う者も、五万と出てきた。中には音楽家なのだから、恨まれてもしょうがない、という者さえ出てきた。もちろん、成美の元にも、マスコミはやってきた。しかし、成美はマスコミの取材は一切受けなかった。犯人はいまだ検討もついていないらしい。しかし、日本の警察は優秀だ。きっとそのうちすぐに犯人も捕まるだろう。日本中がきっとそう考えたはずだ。
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