アブノーマル 第2話 妹

「ただいまー」

「おかえり成美、思ったより早かったね」

「あんまりしゃべる事ないし、わかりきってるような事しか話させてもらえなかった」

「演奏はどうだったんだ?」

「まあまあ。いつも通り。あの曲は高校生の時から弾いてるし、今更なんの新鮮さも無いわ」

 成美は部屋に戻ると、またヴァイオリンを出して弾き始めた。今まで生きてきて、自分の望む理想の音というものを出せた事がなかった。世界中に何人ヴァイオリニストがいるのかわからないが、みんな楽しくヴァイオリンを弾いているのだろうか。こんなに弾く度に辛くなるのは自分だけなのだろうか。そう思うと成美は自分がなぜヴァイオリンを弾いているのかわからなくなった。しかし、これから違う事をしようと思ったって、今までヴァイオリン以外の事なんて、ほとんどしたことがない。自分は世界から見捨てられている人間のように思えた。

 弦の切れた音で成美は気がついた。また深く考えすぎてしまった。人生がこんなに辛くなるなんて。

 テレビをつけると、先日撮ったCMが流れていた。このCMに出ている人は、本当に自分なのだろうか。成美には、このテレビに出ている人間が、自分の姿だとは思えなくなった。自分は必要とされていないダメな人間なのに、このテレビの中の自分はこんなにも笑っている。成美は涙が止まらなくなった。


「成美、ちょっといいか」

 史郎が成美の部屋をノックした。

「……どうぞ」成美は急いで涙をぬぐい、ドアを開けた。

「成美、病院には行っているのか?」

「……」成美は答える事ができない。

「最近店に精神科医だっていうお客さんが来て、名刺を置いていったことを思い出したんだ。もし今の病院が合わないようだったら、行ってみたらどうだ?」

 今通院している病院に不満があるわけではない。しかし成美には、その医者が、到底芸術家である自分の気持ちなど、全く理解していないような気がしていた。

「おじさん……ありがとう」

 成美は名刺を受け取った。名刺には『五名メンタルクリニック』と書いてある。

「これ、なんて読むの? ごな?」

「ごみょうさんだそうだ、院長先生がいらしてね」

「へー、その先生いい人そうだった?」

「誠実そうな人だったよ」

 成美は、史郎が言うなら、行ってみてもいいかという気持ちになった。


 明日は久しぶりに休みだ、史郎も仕事でいないし、家でゆっくりするか。それともこの五名メンタルクリニックへ行ってみるか。ベッドの上に寝転びながら考えていると、電話がなった。

「もしもし?」

「もしもし? お姉ちゃん? 元気だった?」

 成美はげんなりとした、今一番話したく無い奴からの電話を取ってしまった。

「うん、元気だよ。どうしたの?」

「お姉ちゃん今おじさんの家に住んでるんでしょ? 私も少し休み取れそうだから、日本帰ろうかなって思って。彼が急に出張で一ヶ月くらい家を開ける事になって、バカンスの予定もなしになっちゃったのよ」

「じゃお母さんのところに帰るの?」

「うーん、その予定だけど、おじさんのところにも泊まりたいなって! 新しいおじさんの家も店もまだ見てないしねー」

『会いたく無い』その言葉だけが成美の頭の中に鎮座している。そもそも成美は母だけでなく、この妹のあかねの事も苦手だった。

 

 茜は成美より三つ年下の妹だ。成美よりずっと後になってチェロを始めたのに、弾けば弾くほど、どんどん上達した。成美の後を追うように同じ音高に入学したが、たまたま受講した講習会で、ドイツの有名な先生に気に入られ、大学入学と同時にミュンヘンの音大へ留学した。大学院まで出た茜は、ロシアで行われた国際コンクールで優勝し、その後ソロのチェリストとして名が売れた。世界の名だたるオーケストラとも何度も共演し、ヨーロッパ各地でリサイタルも開いている。そうしているうちに、スイス人の指揮者と付き合うようになり、今はスイスのチューリッヒで二人で暮らして居る。結婚はせず、事実婚という形でパートナーシップ契約を結んでいるようだ。成美にはなぜちゃんと結婚しないのか、理解ができなかったが、茜の考えることなんて理解したくもないような気もした。

 幼いころから茜は、なんでもよくできた。大して勉強している様子もないのに、成績は良かったし、運動神経も良かった。中三の最後のバスケの試合でスリーポイントを決めた事は、本人の中でいまだに自慢のようだ。母親はそんな活発な茜によく手を焼いていた。しかし、そんな母親の心配も杞憂であるかのように、茜は自分のやりたい事を楽しんでいるようだった。

 家に彼氏を連れてきている事もよくあった。小さい頃から茜は男によくモテた。幼稚園の時に泣いている茜を公園から二人の男の子が連れて帰ってきて、二人ともが茜のほっぺたにキスをした事をよく覚えている。成美と茜は顔もよく似ていたのに、どうしてこんなに差がついてしまっているのか、成美は茜を見るたびに思った。


「来月かなー、私も仕事が休みになるし、彼もいなくなっちゃうから。日本帰ったらお姉ちゃんよろしくね、あーあ、スペインのバカンス楽しみにしてたのに」

 何をよろしくされたのか成美にはよくわからなかったが、茜が帰ってくるのか。どうにかして会わない方法は無いだろうか……

「わかった、また帰ってくる日決まったら連絡して」

「はーい、お姉ちゃん、楽しみー!」

 茜は今どんな顔をしているのだろう、きっと彼にプリプリと怒りながら文句を言っているに違い無い。その愚痴を茜に会ったら聞くはめになるのだろうか。自分のきらびやかな仕事の実績をひけらかされるのだろうか。想像するだけで成美は死にたくなった。

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