アブノーマル 第1話 宮脇成美のケース

 宮脇成美はイライラしていた。なぜ自分はうまくいかないのか。私には才能があるはずだ。こんなの、私の望んだ未来じゃない。内なる声が頭のなかに響いてきて、成美はヴァイオリンを弾く手を止めた。スマホのリマインダーが鳴り、成美は薬を飲んで、自分の部屋を出て階段を降りた。

「おじさん……お腹すいたー……何か食べさせて……」

 成美は、半年ほど前から叔父の青池史郎の元で暮らしていた。持病が悪化したためである。

「今日も仕事なのか?」

「うん、夜ね。でも食べてから出るから。今日は収録長くなると思うから、帰り遅くなるかも」

 史郎は成美に、長時間煮立てたスープに漬け込んだロールキャベツを出した。

「なにこれ! 新メニュー?」

「いや、今度の店は本格フレンチだからな、ロールキャベツなんか出さないよ。これはお前のために作った」

 成美は史郎の言葉に笑みがこぼれた。

「おじさんの料理は、いつも心も体もあったまるね、本当においしい」

 成美は史郎の事だけは信頼していた。史郎は成美の母の弟であるが、幼いころから母と折り合いの悪い成美は史郎に懐いていた。一方史郎と妻の間に子供はいなかった。史郎も妻とは数年前に死別し、三十年以上営んでいた洋食屋をたたんだ。しかし、史郎は最近また新しいフレンチレストランを立ち上げたのである。自宅兼洋食屋を売り、史郎が一人、大きなマンションに引っ越したところで、一人暮らしをしていた成美のうつ病が発覚した。一人で暮らしながら仕事をするのが辛かった成美は、史郎の元で、当分共に暮らす事になったのだ。

 ロールキャベツを口にしていると、先ほどまでのイライラがすーっと消えていくような気がした。薬のせいなのか、それともこの、とんでもなくおいしいロールキャベツのせいなのか。

「ごちそうさまでした、じゃおじさん、行ってくるね!」

「気をつけて行っておいで」

 マネージャーの車はもうマンションの下についていた。ヴァイオリンを先に後部座席に乗せると、成美は助手席に乗り込んだ。

「成美さん、練習はかどってる?」

「大丈夫よ、うるさい事言わないで」

 成美の演奏は最近評判がよくない。特にうまくもないのに、顔で売っていると、SNSや、共演するオーケストラの中で陰口を叩かれているに違いなかった。


 成美はヴァイオリニストだ。しかし、成美自身には不満があった。母親は、成美が幼いころから非常に厳しく教育し、何時間も閉じ込めて練習させられる事もあった。小学生のころに、いくつかのコンクールで優勝経験があるが、中学に上がると、コンクールで優勝できる事がなくなってしまった。全国大会までは進むものの、タイトルが取れなくなり、いつのまにか同世代の中では、シルバーコレクターなんていうあだ名までつけられてしまったほどだ。母親も、もともとピアニストであったため、成美の成績では満足しなかった。高校は音楽高校に進学し、そのまま音大に進んだ。大学時代は、スタジオの仕事を多くするようになった。コンクールの成績は相変わらず鳴かず飛ばずだったが、スタジオの仕事をしている中で、成美の容姿を見込んで、タレント事務所が声をかけてきた。それから成美はタレントヴァイオリニストとして、テレビに引っ張りだこになった。バラエティ番組にも何本か出演したし、クラシック専門チャンネルでも、コメンテーターとしてレギュラー出演している。その事務所のプッシュのおかげで、CDを三枚、オーケストラとも協奏曲を何回も共演させてもらった。定期的に開いているリサイタルもいつも満席だ。しかし、成美の耳には業界の声が聞こえていた。

『才能も無いのに』『どうせ親が金持ちなんだろう』『顔で売ってるだけの女』

 どれもこれも成美自身が気づいている事だった。

 恋愛経験も、残念ながらなかった。三十五歳にもなって、彼氏の一人もできた事がない。それも成美の悩みの一つだ。幼いころ、自分は海外へ行って、ヴァイオリニストとして様々なオーケストラと共演し、外国人の男性と結婚するものだと思っていた。しかし現実は厳しいものだ。成美は海外留学をする事もなく、今も日本にとどまっている。

 世間は成美の事を羨ましいという。何も知らない奴らの戯言だ。その声は、努力をしてこなかった奴らの負け惜しみか、自分は一般的な幸せを手に入れたけど、あなたはそんなしがらみに縛られて可哀想ね、といったマウントを取った言葉にしか聞こえなかった。

 しかし、なぜ自分はこんなにも長い間努力をしていたのに、幸せになれていないのだろう。そのストレスは、成美の肩に大きくのしかかり、長年患っていた不安障害が悪化し、うつ病となった。今は薬でコントロールしながら、仕事を続けている。

「では、収録終了後、またお迎えに来ます。僕は別の仕事があるんで」

「わかった、ありがとう」

 成美は東上テレビの裏口の前で車を降りた。今日はヴァイオリンの世界三大名器、ストラディバリウス、ガルネリ、アマティについて語るコーナーで、有識者として呼ばれている。無論成美はそんな名器を演奏した事などない。このような名器はコンクールの優勝副賞として、スポンサーから貸与されるか、本当に名だたるプレイヤーにしか弾く資格はないのだ。今まで勉強してきた知識と、付け焼刃の知識で、名器について一通り語った後、最後に成美が演奏する時間が設けられているが、それは自分の楽器で演奏するのだから、ばかばかしい話だ。と成美は思っていた。


「本当にすばらしい演奏でしたね、心に澄み渡るような音色でした。本日のゲストは宮脇成美さんでした、ありがとうございました」

 スタッフたちと共演者である神戸莉子アナの大きな拍手がスタジオに響き渡る。

 あなたこそが人生の成功者では無いか、と成美は莉子を見て思った。美しく生まれて、仕事も成功し、最近結婚したばかりの女性アナウンサー。あなたのような人間こそ、すべてを手に入れているのだろう。何が心に澄み渡るだ。どうせ聞いていなかったんだろう。演奏中で映っていない時にスマホで新婚の旦那に連絡でも取っていたに違い無い。

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