私より知っている 最終話 私より知っている
卒業式がやってきた。朝日とは、あれから学校で話すことはもちろん無くなってしまったし、チャットをする事もない。友達と話すことももちろんない。そもそも友達なんていなかった。塾にも行っていない。母親は激しく心配しているようだ。手術を受けて、一時は元気になったものの、咲良はまた部屋に篭もりがちになり、学校にも行ったり行かなかったりの日々が続いた。咲良には、学校という大きな箱が、自分の居場所にしては随分と大きすぎる気がした。
「朝陽先輩、卒業、おめでとうございます」
咲良は一人、朝陽に伝えに行った。
「ありがとう」
朝陽は少し広角を横に引っ張ると、すぐに咲良のいる場所から離れるように去っていった。
咲良は朝陽の背中に何もいう事はできなかった。
「何聴いてんの?」
体育館の入り口の、数段しかない階段に座っている咲良の隣に、伊吹は座った。卒業式が終わってだいぶ時間がたって、あたりには誰もいないようだ。伊吹は、咲良の耳にはまっているイヤホンを勝手に外して、自分の耳にはめた。
「何すんのよ」
「ラッドウィンプス? 俺も好きだよ。携帯電話? 結構古いね」
咲良は今、なぜこの曲を聴いているのか、分からなかった。ただ心が落ち着くのだ。なぜラッドウィンプスを好きになったのかも、この曲を繰り返し聴いているのかもわからないが、咲良は最近は『携帯電話』だけをイヤホンから流している。
「お前さ、室田先輩のこと好きだったの?」
それは突然のことだった。咲良は、伊吹の口から、朝陽の名前が出てくるとは思わなかったのだ。
「朝陽先輩のこと知ってるの?」
「知ってるよ、俺もテニス部だったんだ。とっくにやめちまったけどな」
吉川伊吹は、中学時代テニス部だった。幼い頃からテニスクラブに通い、大会での優勝経験もある。プロテニスプレーヤーを夢見る時期もあったのだ。
「でも、うちのテニス部って弱小じゃない? どうしてもっと強い高校行かなかったの?」
「俺の父ちゃん医者なんだ。だから俺も医者になるつもりだ。テニスはやめなきゃいけなかった」
「え……夢を、諦めちゃったの?」
「いや! 俺は勉強も好きなんだ。テニスも好きだったけど、勉強もゲームも好きだしな。医者にもなりたいと思ってる」
伊吹はにっこりと笑った。咲良は誰かが本当に笑顔になるのを、久しぶりに見た気がした。高校に入ってから、誰かが自分に笑顔を向けた記憶を見つけることができなかったからだ。
「私、何も覚えていないの」
「え?」
咲良は、この伊吹という男に心を開いたわけではないと思っていたのに、口がつらつらと勝手に話し始めてしまうようだった。
「スマホやめて、今までスマホの画面しか見てなかったことに気づいて、高校生活をどうやって生きてきたのか、何も覚えてない」
「そうか」
「え、おかしいと思わないの?」
「高校の時のことなんて、十年も経ったらみんな忘れちまうよ。形になって残ってるものを見て、思い出すもんなんじゃねーの」
伊吹は階段に横たわって、空を見上げた。咲良も一緒に空を見上げた。空は曇っていて、灰色の空だ。せっかくの卒業式だというのに、晴れ晴れとした気持ちに卒業生はなれるのかな、と咲良は思った。
伊吹は咲良が握っていたスマートフォンを手に取り、勝手に操作をし始めた。
「何すんのよ、やめて」
「これは去年の体育祭? 咲良、青組だったんだね」
伊吹は写真フォルダを開いて、咲良に見せた。咲良は、自分が青組であったことなんて全く記憶になかった。でも、確かに写真の中の自分は、青い鉢巻を巻いてピースサインを向けている。不思議なほど満面の笑顔で自分はそこにいた。
「こっちは修学旅行じゃない? 俺も行ったよ、沖縄」
そうか、修学旅行は沖縄だった。ファイルの中には、たくさんの青くキラキラと輝いた海の写真が何枚もあった。あの時食べたソーキそばも、みんなお揃いで買った星の砂のキーホルダーも、そこには楽しそうな自分がたくさんいた。そのほかにも、みんなで撮ったプリクラ、教室でカップラーメンを掻き込むクラスメイト。黒板に何かを書きながら爆笑している自分。
咲良は伊吹からスマホを受け取ると、あの時告白したメールも、みんなの連絡先も、笑顔の写真も、全て残っていた。
「携帯電話は、君より君のことを知っていたね」
伊吹の言葉に咲良は泣いた。涙が止まらなかった。こんなに涙を流したのは久しぶりだった。空は雲が少しだけ晴れて、青い部分が顔を出し始めた。太陽はまだ照っていない。伊吹は、何も言わずに泣いている咲良をそっと抱きしめた。
「お前さー、なんでうちの高校なんかきたんだよ」
「推薦だったんで、受験めんどくさかったからっすかねー」
「いいよなー、父親が医者で、プロテニス候補で、頭もいいんだろ、お前」
「そんなことないっすよ、大したことないっす、それにテニスはもうやめるし」
「テニスやめても、お前はなんでもできるもんな」
「先輩だって、大学行って就職して、そのうち結婚するんでしょ、いい人生じゃないですか」
「吉川、お前、本当はテニスやりたかったんじゃないのか」
「……」
「吉川……?」
伊吹は眼鏡を外して、空を見上げた。今にも雨が降りそうで、冷たく湿った風が伊吹の目を刺激した。
「お前が何を抱えているのか知らないけど、お前は一人じゃない」
伊吹が目を閉じると、一粒だけ涙が流れた。朝陽は伊吹の頭をくしゃくしゃと掻き撫でて、その場を去った。次の日、伊吹はテニス部を辞めた。
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