私より知っている 第6話 吉川伊吹

「和久井さん?」

「……はい?」

「俺だよ、わかる?」

「……え?」

 咲良が塾の教室に入ると、一人の男子高校生が話しかけてきた。同じ制服を着ている。どうやら同じ高校の生徒のようだ。

「おいおい、嘘だろ、ぼーっとしてんなよ。聖ヶ丘高校ひじりがおかこうこう二年B組の吉川伊吹よしかわいぶき、お前D組の和久井咲良。いつもセントラルキャノンで一緒に戦ってるだろ、最近来ないからどうしたのかなって」

 セントラルキャノンは、咲良がそれこそ毎日中毒のように遊んでいたオンラインゲームだ。いつも一緒にモンスターを倒していた『ぶきお』という男がいることを少しだけ思い出した。

「あー、ぶきお……?」

「ぶきお? って……こないだもその話さじゃんか……自習室で!」

 咲良は伊吹の顔を初めて見る気がした。黒髪で前髪があって眼鏡をかけている。どこにでもいる、地味な典型的ゲームヲタクだな、と咲良は思った。

「最近どうしたの? もう飽きちゃった?」

「あー……うん。もうすぐ受験生にもなるし、そろそろ本腰入れて勉強しなきゃかなって」

 咲良はまた適当なことを言ってしまった。と思った。

「本当に?」

「どう言う意味?」

「なんかあったのかなーって思ってさ」

 どうやらこの吉川伊吹という男は、勘がいいらしい。

「和久井さん、もうセントラルキャノン来ないの?」

「うん……たぶん……」

「つまんないなー、まだ最終面まで行ってないじゃん」

「……ごめん」

 咲良はなぜ自分が謝っているのかわからなかったが、とりあえずいつもの癖で謝った。しかし伊吹は、そんなこともお見通しであるかのように、咲良を横目で見つめている。

「じゃ、勉強頑張ってねー」

「あんたもでしょ」

 そう言ったところで、講師が教室に入ってきた。伊吹は慌てて教室を出た。この男は学校のみならず、塾でもクラスが違うのか。セントラルキャノンで一緒に戦っていただけなのに、なぜ現実世界で自分のことを知っているのか、咲良は不思議に思った。


 授業が終わると、外はすでに真っ暗だった。

「おーい、咲良、帰るのか?」

「なんで急に名前で呼んでくるの……」

「お前、セントラルキャノンの中でも『さくら』だろ。この間俺のことも伊吹って呼んでたじゃないか」

「私たち今日初めてしゃべったでしょ?」

「はあー? 先週も自習室でタリスマンのゲットの仕方について散々しゃべっただろ……お前本当に何にも覚えてないの?」

 咲良は、このどう考えてもヲタクな男のヲタクっぽくない喋り方も気になったし、突然名前で呼んでくる無神経さも気になった。自分がこの男のことを『伊吹』なんて、親しく呼んでいたなんて、全く信じられない。この男と仲良くなんて、絶対にできない。咲良は伊吹を振り切って、小走りで横断歩道を渡った。




 手術を受けてからの咲良は、スマホに触ることは本当に、ほとんどなくなった。寝る前に一度確認する程度だ。グループチャットの通知は六十三件と、とんでもない数字を叩き出している。メールも、たくさんのゲーム会社やコスメ、ファミレス、求人サイト。ほとんどが広告やクーポン券のお知らせで埋め尽くされている。今までこんな量のメールやチャットを捌いていたのかと思うと、どれだけ長い時間を無駄にしていたかと思う。しかし、その時間を有効利用する術も、いまの咲良にはなかった。咲良は目を通すことも億劫になり、朝陽にチャットを送った。

『練習大変ですか? 試合、もうすぐですね』

 するとすぐに返事が来た。

『今日も夜まで打ってて、ちょっと緊張してる』

 ひとつ年上なのに、咲良は朝陽のことがたまらなく可愛いと思った。本当はもっと学校でも話したいし、一緒にいたい。試合の日はお弁当を作っていこう。




 金曜日は授業が早く終わる。今日は塾もないので、いつもは友達とお茶しに行ったり、プリクラを取りに行ったりしていたはずだ。今はそんな気持ちにすらならない。

「咲良ー!」

 鬱陶しいやつの声が聞こえた。咲良は今更気がついた。そういえば、こいつも同じ学校だった。全くめんどくさいやつと知り合ってしまったものだ。

「学校で話しかけてこないでよ」

「放課後うちでゲームでもしねー?」

「するわけないでしょ! 私はもうゲームもしないの」

 伊吹は咲良の顔を覗き込むように見た。咲良がため息をついていると、伊吹のずっと後ろに朝陽の姿が見えた。朝陽は咲良の姿に気がつくと、目を逸らして教室に入って行ってしまった。

「ほら! だから話しかけてこないでって言ったじゃない!」

 咲良は伊吹を振り切って、そそくさと上履きに履き替えると、自分の教室に向かった。


 教室に入ると、クラスメイトの視線が咲良に集まった。咲良に挨拶するものはいない。自分の席まで行くと、机の上には花瓶が置いてあった。

「咲良、死んじゃったんでしょー」「ねー、グループチャット、全然返事ないもんねー」

 昨日まで、後ろを向いて話しかけていたクラスメイトたち、そして周りのクラスメイト達もクスクスと笑いながら、咲良に聞こえるように話している。

 咲良は何も言わずに、花瓶の水を前に座っている女にかけた。

「きゃー! 何すんのよ!!」

「どうしてこんなことするの?」

「あんたがいけないんでしょ! 私たちを無下にするから、ずっと親友だと思ってたのに!」

「……私は、あんたを友達だと思ったことは一度もない」

 咲良は、そう言い残して教室を出た。これが咲良の本心なのかどうかはわからない。しかし、今まであんな奴らとつるんできたことの方が、今の桜には不思議に感じた。彼女たちの顔も、名前も、何を話していたのかも、何も覚えていなかった。そして、今の咲良には何もない。


 咲良は学校を出ると、そのまま図書館に向かった。

 図書館の中に、人はほとんどいなかった。こんな平日の午前中に制服を着た少女がいること自体が、本来ならば異常なことだ。

 あんなに強気な態度を取ったとはいえ、咲良の心は傷ついていた。あんなことをされるなんて。今までぬらりくらりと生きてきたはずだったのに、自分にとっては信じられない漫画のような出来事に思えた。スマホをやめただけなのに、自分はこの小さい箱のような機械によって、生かされていたことを痛感した。これがなければ、自分の中身は何もない、空っぽだ。

 図書館の中に、読みたい本も見つからない。しかし、スマホを出す気にもなれない。家に帰るまで、どこで時間を潰そうかと、咲良は頭を悩ませた。

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