私より知っている 第5話 サニー先輩の名前
「咲良! おはよう!」
「おはよう」
「これ! 昨日のノートありがとう!」
「何のノート?」
「またー、数学のノートうつさせてくれたじゃない!」
咲良には、この髪の毛を信じられないくらい上の方で一つにまとめた少女が、突然何を言っているのか全くわからなかった。しかし彼女は、『和久井咲良』と名前の書いてあるノートを学生鞄の中から、おおっぴらげに取り出し、咲良に手渡した。
「私、ノート貸したっけ?」
「昨日チャットしたじゃない、明日返すって」
昨日の夜、寝る前にスマホを確認したつもりだ。確かに、そんな内容をどこかで見たような気がしなくもなかった。この彼女からのチャットだったのか。咲良は、この目の前にいる少女と、どうやって仲良くなったのか、必死に思い出そうとした。
教室に入ると、見たこともない雑多な光景が見えた。女子たちの短いスカート、男子たちの汚いスニーカー、学生鞄もみんな机の上に口を大きく開けたまま寝かしつけられている。自分の席は……ここだ、窓際前から四番目。
「咲良! 昨日全然返事くれなかったジャーン、どうしたの?」
「そうそう! いつも即レスなのに!」
咲良の席の前には、元気に話しかけてくるクラスメイトが二人いる。彼女たちは何を言っているのだろう。確かに、昨日の夜はスマホがなりまくっていた。咲良は鬱陶しくなって、通知をオフにしてしまった。ペチャクチャと喋る子の彼女たちの顔が、今の咲良には、漫画のネームのように、点と線で結ばれた絵のように感じられた。何だか、顔がはっきりしない。彼女たちとの関係も、思い出せない。
「ごめん、昨日早く寝ちゃって」
これはいるもの癖なのか、その場をおさめるためだけに嘘をついたところで、チャイムが鳴った。少し首を傾げながら、後ろを向いて話していた彼女たちは、前に向き直った。
咲良は毎日この教室で過ごしていたことが、信じられない気持ちになった。教壇には、禿げ上がった頭に、バーコードのように髪の毛をセットしたじいさんが立っている。そうだ、あれは私たちの担任だ。
学校が一日終わると、咲良は激しく疲れてしまった。こんなに授業をちゃんと受けて、頭を使ったのは久しぶりだと言うことに気づく。教室の光景は、こんなにも汚いものだったのか。一度も思ったことはなかったが、スマホに気が取られないだけで、いろんなところに目移りしてしまう。今までいかに、スマホの画面だけを見ていたのか、と言うことに咲良は気づいた。
「咲良ちゃん……?」
「あ。先輩」
玄関で靴を出そうとしたところで、サニー先輩が咲良に話しかけてきた。先輩の方から学校で話しかけてくれるなんて、咲良の心臓が高鳴った。
「咲良ちゃん、あの、もしよかったら、日曜日の試合、見にきてくれないかな?」
「え、いいんですか?」
「うん、次の試合、最後の試合なんだ。いいところまでいけそうだし、咲良ちゃんに、見てもらいたいなって……あ、この間は返事遅くなっちゃってごめんね……?」
先輩は少し遠慮がちに言った。
「え……嬉しいです。先輩頑張ってください、必ず行きます!」
咲良も、先輩と自信を持って話すことができて、嬉しくなった。
「先輩なんて、あの、名前でいいよ」
「……」
サニー先輩は、サニー先輩だ。もちろん彼に対してそんな呼び方をしたことはない。しかし咲良は彼の顔を見て、もう一度思った。先輩……先輩は先輩。先輩はサニー先輩。
「……」
咲良は答えることができない。今までスマホだけで彼と話してたから。咲良は何も言わずに俯いた。
「……
朝陽は何かを察したように、先に自分から名前を言った。咲良は一度朝陽の目を見つめると、もう一度目線を外した。
「朝陽先輩……ごめんなさい」
「いや、今まであんまり学校で話してなかったから、じゃ日曜日、待ってるよ」
家に戻ると、咲良は「ただいま」も言わずに部屋に篭った。母親は咲良の帰宅に気付いていないようだ。
部屋に戻ると、咲良はまた布団の中に潜り込んだ。今日一日の出来事は、桜にとってとても新鮮な経験であり、風景だった。二年間も過ごした場所のはずなのに。友達の顔もとても新鮮に感じられた。ずっと一緒に過ごしてきたはずなのに。何よりもショックだったのは、朝陽の名前を全く思い出せなかった事だ。
咲良はスマホの明かりをつけて、眺めた。全く興味がわかない。いつもやっているゲームもSNSも、チェックする気が全く起きない。そう考えると、時間がものすごくできた気がした。少しベッドで寝転がっていると、スマホがなった。朝陽からのチャットだ。日曜日の試合会場の地図が送られてきている。
『今日はすみません、地図ありがとうございます、日曜日楽しみにしています』
既読だけすぐについて、朝陽からの返事はなかった。
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