私より知っている 第3話 五名メンタルクリニック
昨日は全く眠れなかった。あのまま布団の中で一夜を過ごしてしまった。学校に行く気がしない。再び制服に着替える気力もない。お風呂にも入っていないし、歯も磨いていない。咲良は余計に布団の中から出られなくなってしまった。階段を上る足音が聞こえる。咲良の世界の扉を無理やりこじ開ける輩の足音だ。さらに深く布団の中に潜り込む。
「咲良、起きられないの?」
想像していた怒鳴り声は飛んでこなかった。咲良は少しだけ、布団の中から顔を出そうとした。その姿はさながらイモムシのようだ。
「病院に行きましょう」
「え、どうして?」
「昨日の夜、学校の先生から電話があったわ。あなた授業中もスマホを触っていたそうね」
「そ、それは、ごめんなさい。悪かったと思ってる」
母親は先生から、昨日の授業中に起こったことを全て聞いていた。流石にあの行動は異常すぎる。先生も心配になって、家に電話をかけてきたようだ。
「咲良、携帯依存症って病気、知ってる?」
「私、そんなんじゃないよ」
そうは言ったものの、実は咲良には自覚がないわけではなかった。病気である意識はないが、具合が悪くなっているのはわかっている。先生が自分のスマホを奪った時の感覚を、今でも忘れることができない。全てを奪われたような、あの感覚。スマホが鳴るたびに、確認せずにはいられない。チャットの返事が来ないことによる異常なまでの恐怖。
「あなた、こんな状態で、受験勉強できるの?」
「……」
咲良は答えることができなかった。咲良にとってスマートフォンの中の世界は全てだ。しかし、これからずっと、そのままでいいとは思っていなかった。サニー先輩とだって、ちゃんと話せるようになりたい。母親の問いに答えられなかった咲良は、半ば引きずられていくような形で、五名メンタルクリニックへ足を運ぶことになった。
「ママ……やっぱり行きたくない……」
「大丈夫よ! 京太郎くんが勧めてくれたんだから、早くしなさい、別に怖いところじゃないわよ!」
咲良は異様に気が重くなった。何も悪いことをしていないのに、これは自分が課された罪に対する仕打ちのように感じられた。こんな誰も気づかないような暗い裏路地にある、寂れたビルの中に入っている病院なんて、ほとんどお化け屋敷ではないか。
従兄弟の敷島京太郎は、出版社で編集の仕事をしていて、咲良の携帯依存症を疑っていた母親が相談した時に、精神科を勧めてきたらしい。これから受験勉強も相待って、ストレスが溜まるだろうし、この五名メンタルクリニックは、京太郎の出版社の雑誌でも、取材協力を申し出ているところだと言うので、母親も安心したらしい。
全く余計なことをしてくれたものだ。精神科にかかってるなんて、学校では絶対に言えないし、大体この敷島京太郎という男を咲良は心底信頼していなかった。両親や、周りの人間にはいい顔をしているが、自分のことを、どこかドブのような光のない目で見つめているように見えて、気味が悪かった。
こんなところを誰かに見られやしないだろうか。足早に進みたい気持ちと、重い足取りが交差して、咲良は前を向いて歩くことはできなかった。
「おや、山田さん、お掃除ですか、珍しいこともあるものですね」
「先生の悪のオーラを一掃しています」
今日も
「山田さん、私も人間なので、もう少し優しい言い方をしてもらえないでしょうか……」
「先生が人間!? それは失礼いたしました、蛇かと思っていたもので」
「……」
五名は山田の事を雇ったこと後悔するべきかどうか悩んでいる。
山田は、そんな五名の表情を読み取る事もなく、いるも自分の部屋かと言うほど、ぐちゃぐちゃにしている受付周りをきれいに整頓し、ぬいぐるみを敷き詰めた。
「五名先生、今日は予約が一件入っています」
「一件ですか……もうちょっと予約が入ってくれれば、嬉しいのですがね……今日の患者さんはお子さんですか?」
五名はクリニックの経営状態に頭を抱えていた。バカ高いこの山田の給料と家賃(従業員は山田一人と、家賃はあってないようなものなのだが)。開業した時は、脳手術の甲斐もあって、口コミで訪れる患者も多かったのだが、ある日から口コミは逆転し、悪い噂も広がるようになってしまった。もちろん受診は保険適用外なので、全額個人負担だ。脳手術の患者さんたちを見ていると、完璧ではないようだし、もう少し精度を上げて研究し直すべきなのかもしれないな。と五名は考えていた。
「あ! 五名先生! いいこと思いつきましたよ」
「お! なんですか! 山田さん!」
「昨日スーパーで買い物してたらあることに気づいたんですけど……夕方になると五十パーセントオフのシールが貼られていることがあるんですよ、お肉とかに」
「はい!」
「それってすーぐなくなっちゃうんですよ」
「受診料も、五十パーセントオフにして売り出すってのはどうですか?」
「……」
ドアが開いた、珍しく親子連れだ。母親と、どう見ても高校生と思しき少女が、俯き加減で入ってきた。
「小さいお子さんじゃないじゃないですか!」
五名は小声で山田に向かって言った。
「私はお子さんなんて、一言も言っていませんが」
「すみません、予約していた和久井咲良の母です、受診するのはこの子です」
「お待ちしておりました、どうぞ」
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