絶対音痴 第8話 絶対音痴
ようやく完成した新しい店の外観をながめて、悠馬は壮観だ、と思った。ほとんど手作りでの出発だった。資金は史郎がほとんど出してくれた。史郎は、かなりため込んでいたのと、これまでの実績で銀行からの信用も厚く、融資の話も非常にスムーズだった。悠馬は共同経営者という肩書きで店を持っていたが、それは名ばかりで、資金を出した史郎に半ば雇われる形で、アドバイザー的な立ち位置に着く事にした。これから、料理人や、ウエイターなども、史郎のツテをたどって、ヘッドハンティングしに行くつもりだ。
「看板注文できましたよ」史郎が悠馬に伝えた。
悠馬はその言葉に、さらに嬉しい気持ちになった。二人の新たなレストランの名前は『アンサンブル』。フランス語で、『一緒』という意味だ。音楽用語で、合唱や、合奏などにも使われる。悠馬はこのレストランにぴったりの名前だと思った。
花とも正式に離婚が成立した。養育費を毎月振り込む形で、子供達にも二週間に一回の面会が許された。悠馬も親権を主張したが、当然、仕事も辞めてしまった悠馬に有利に働く事はなく、両親の手助けと、すでに就職を決めていた花が圧倒的に強かった。悠馬はその後社宅から引っ越し、史郎の口添えで、都内のマンションを借りた。 史郎にここまでしてもらった手前、店舗は悠馬が足で死に物狂いで探し、何回でも頭を下げて決めてきた。リフォーム費用にだいぶかかってしまったが、予算をオーバーした分は、自らの手で作っていった。二年間かけて、ヨーロッパの小さなお城のような立派な店を作る事が出来た、と悠馬も史郎も大満足だった。
初めて自分の店を持てるなんて、悠馬は出来上がった店を見て涙が出た。
「浅井さん、何泣いているんですか、これからですよ」
「青池さん……そうですよね、本当にありがとうございます……青池さんのおかげで、夢が叶いました……」
史郎は悠馬の姿を見て、笑顔をこぼしていた。
「浅井さん、あなたにはまだまだやってもらわなければならない仕事がありますよ!」
史郎はにっこりと笑って、スパイスの小瓶が入った段ボールを持ってきた。
「前回のものは、全部覚えましたね」
「はい! 面白いですね、世界には知らない食べ物で溢れている!」
これは、初めて史郎が悠馬の家を訪れた時にした約束だった。
「あなたの知識は短絡的すぎる……もっと勉強してください。学ばないものに、人の料理をどうこう言う資格はない」
「……はい」
「この世には、あなたの知らない味が無数にあります。できる限り私の元で、勉強して、覚えてください。それが、共に飲食店を経営する条件です」
史郎との約束を、悠馬は頑なに守った。それ以降、添加物が入っていそうなジャンクなものは、一切口にしなかった(どっちにしろ食べられないのだが)。しかし、気がついては、あらゆるスパイスを買い込み、口にしてはメモする作業を重ねていた。その熱心な悠馬の姿を見て、史郎も協力して、世界中からスパイスを仕入れるようになった。
二人は、それからたくさんのメニューを生み出した。史郎の作る料理に、どんなスパイスが合うのか、悠馬の頭の中のデータから探り、合わせる事が出来た。その作業はあまりにも爽快で、史郎が一人でメニュー開発をするよりも、ずっと短時間ですばらしい料理を生み出す事ができた。メニューと、その料理が振舞われる城ができてきて、二人は意気揚々としていた。
「浅井さん、私は一度銀行に行ってきますので、留守番お願いします」
史郎は、そう言い残すと店を出た。ガス台の上には、今日のまかないに作ったスープの鍋が置いてある。史郎を待っている間、店の掃除をしていた悠馬だったが、なかなか史郎は帰ってこない。そろそろお腹も空いてしまった。
午後一時をすぎても史郎は帰ってこなかったので、悠馬は先にまかないをいただく事にした。一通りスープを食べ終わったところで、史郎が帰ってきた、
「青池さん、おかえりなさい……」
突然悠馬は何が起こっているのかわからなくなった。喉が、胃が、体中が焼けるように暑い。目の前が完全に回り出し、心臓がものすごい速さで動いている。悠馬はその場に倒れこんだ。史郎は何も口にする事なくまっすぐと悠馬を見つめている。
「あ、青池さん……な、なに、が……」悠馬の視界には、史郎の足元だけが入っている。
史郎は、ゆっくりと悠馬に近くと、かがんで目を悠馬に合わせ、つぶやいた。
「だいぶ効くのに時間がかかったな……お前、本当に味音痴だったんだな。あんなものを食べきれるなんて」
悠馬は何を言っているのかわからなかった。あのスープには特別奇妙な味はしなかった。前回二人で食べたスパイスと同じ味だ。
「あのスープに入っていたスパイスは先週一緒に食べたナツメグだ、ナツメグは一度に大量摂取すると中毒症状を起こす場合がある。あのスープには致死量の百倍以上の量を入れておいた」
「青池さん……どうして……」
「俺だって、信頼されていたよ……お前が現れるまではな!」
史郎は悠馬に向かって叫んだ。
「残念だなんて……言われた事がないんだ。俺の料理は世界一だ。残念なんて言葉は……一番ふさわしくないんだ!」
悠馬は最後にその言葉だけを聞いた。なんて短絡的な……人はどうしてこんなにも簡単に恨みを買ってしまうものだろう。なぜ……こんな男についてきてしまったんだろう……自分は利用されたのだ。利用されるだけされて命を奪われた。もう立ち上がる力も残っていない……どうしてこんな事になってしまったのだろうか……悠馬の意識は遠のいていった。
「味音痴っておそろしいな、いや、人の気持ちも汲み取れない、絶対音痴だな」
史郎は、死にゆく悠馬の姿を見ながら最後の言葉をかけた。悠馬の脈がなくなった事を確認すると、史郎はつぶやいた。
「花ちゃん……ごめんね」
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