絶対音痴 最終話 二年前

 二年前

「青池さん……ご無沙汰しております」

「花ちゃん……久しぶりだね……さっきは電話くれて、突然何があったのかと思ったよ」


「本当に、うちの主人が、申し訳ございませんでした……」花は涙を流しながら史郎に謝った。

「え……あの人……花ちゃんのご主人なの……?」

 史郎はその言葉に絶望した。客に、自分の料理を失望させた、あの男の事は心から許せない。この恨みをどうやって晴らそうかという事ばかり考えていた。あんな男が花ちゃんと結婚していたなんて……

「青池さん……本当にすみません、でも、青池さんに、お願いがあるんです。主人を救ってほしいんです……あの人、本当はあんな人じゃないんです……優しい人なんです。ただ、料理にくわしくないだけで……」


 窪塚花くぼづかはなは、料理人を目指していた。調理師専門学校を卒業した後、南青山にある、マシュランでも星を取っているフレンチレストラン『ソレイユ』に就職した。皿洗いも、掃除も、何でもやった、毎日身を粉にして働いていた。フレンチシェフとしての修行は時間と体力勝負だ、覚悟はしていたものの、なかなか成果は出せず、料理を作らせてもらうことすら叶わない現状に、花は毎日何をやっているのだろう……という気持ちになった。そして、あまりの長時間労働に、花は体も少しずつ壊していった。

 そんな時、仕事帰りにたまたま通り掛かった『アオイケ亭』から、ものすごくいい匂いが漂ってきた。その匂いに誘わいざなれるかのように、花は、アオイケ亭のドアをくぐった。厨房の中には、気難しそうな親父が無言でもくもくと鍋を振るっている。

「あの、すみません、もう……閉店ですよね……?」

「…………どうぞ」

 気難しそうな親父は一言そう言った。すると奥から、元気のいい優しそうなおばさんが、出てきた。

「あら! ごめんなさいね、お客さん?」

「夜遅くにすみません、あんまりにもいい匂いがしたもので、入ってきてしまって」

「いいんですよ! うちは、家でやっているようなものだからねえ! お腹すいたんでしょ! さあどうぞ!」

 この親父の奥さんかと思われるその女性は、満面の笑みで花に声をかけた。

「史郎さん! ビーフシチュー! 出してあげて!」

 こんなに遅くにビーフシチュー? 花は少し憚られたが、この匂いには耐えられない。これからビーフシチューが出てくるのかと思うと、久しぶりにウキウキした。

「ごめんなさいね! 注文もしてないのに! うちの売りはビーフシチューなのよ。是非あなたに食べてほしいわ、あったまるわよ!」奥さんはまた花に満面の笑みでそう言った。

 ビーフシチューが出てくると、花はその香りにすでに心があたたかくなっていくような感じがした。一口スプーンをかきこむと、今まで食べたどんなものよりも美味しく感じられた。それは、自らが働いているソレイユの料理よりも、当時の花には暖かく、包み込むような味わいだった。花は涙を流しながら、そのビーフシチューをペロリとたいらげてしまった。

「あらあら、よっぽどお腹が空いていたのね」奥さんはまた笑顔で花を見つめている。

「ここで、働かせてください」

 花は、思いもかけず、自分の思考よりも先に口にしていた。

「ここで働かせてください! バイトでも結構です! 私は見習いの料理人で、ここで料理の勉強がもっとしたいんです!」


 それから花は青池史郎の元で、見習いの料理人として、修行に入った。

 ——料理は誰かのために作る。誰かを想いながら作れば、良い味が出る。

 それが史郎のモットーだった。史郎は、いつも来てくれるお客さんのために、思いを込めて料理をしていると語った。余裕があれば、その人の様子を見て味付けを変えているとも。

 花は、この人は料理人の鏡だと思った。この人にずっと着いていこうと思った。史郎は厳しくも優しい花の師匠となっていった。

 アオイケ亭で修行を始めて五年が経ち、花はメインの料理も史郎から任されるようになっていった。ある日、フィットネスクラブで知り合った浅井悠馬と付き合うことになる。悠馬はそこまで料理に興味が無いようだったが、料理の事を全く知らない悠馬との話しも、花にとって新鮮だった。花が、二十六歳になった時に、妊娠が発覚する。それを機に、花は悠馬と結婚する事になった。悠馬は、花が働き続ける事を望まなかった。何より、長時間の立ち仕事は、妊婦にとってリスクが高すぎると思ったのだ。

 花は結婚と妊娠の件を、青池夫婦に話す事にした。そして、これ以上仕事を続けられないことも。

「いや、花ちゃん、おめでとう。でも実は、花ちゃんにはそろそろ退職してもらおうと思っていたんだ」史郎は花に言った。

「花ちゃんはもう、立派な料理人だ。自分の店を出しても良いし、もっと良い高級レストランに勤めても、きっとやっていける。ここは町の洋食屋だ。花ちゃんはもっと大きなところに行くべきだ。今ならソレイユに戻っても充分やっていけるよ」

 花は涙を流した。そんなことを考えていてくれたなんて。

「今は、元気な子を産んで、また落ち着いたら料理人として、働けばいい。でも、花ちゃんには料理する気持ちを絶対に忘れないでほしい」

 史郎は、花の手を握りながら言った。奥さんもいつものように、満面の笑みで、頷いていた。


 それから、花は、史郎の言いつけをよく守り、悠馬には心を込めて毎日毎日料理をするようになった。毎日お弁当も作った。しかし、悠馬は花の料理に美味しいと言った事も、ありがとうと言ったことも無かった。それどころか、味噌汁に至っては「味薄く無い?」と言う始末だ。おまけに、いつもコンビニのお菓子や、激辛のラーメンなどを美味しそうに食べている。花の料理には全く興味が無いようだった。ホットドックにも、信じられない量のケチャップや、チリソースをのっけて食べている。花は悲しくなった。そんな事をしたらソーセージやパンが可哀相だとさえ思った。

 ある日、花は史郎から、奥さんが亡くなったという連絡を受けた。すぐにでも駆けつけたい気持ちだったが、まだ幼い長女を預けられる人が見つからなかった。悠馬に何度も電話したが出ることはない。ついに花は、アオイケ亭の奥さんのお通夜に出席する事が出来なかった。その日の夜遅く、ベロベロに酔っ払った悠馬が帰ってきた。聞くと、接待で今までキャバクラで飲んでいたそうだ。

 花は、長女がある程度大きくなったところで、再び料理人として働く事を望んでいた。その事を悠馬に打ち明けようと、ずっと落ち着いて話しをしたいと思っていたところで、二人目の妊娠が発覚した。花も悠馬も喜んでいたが、花は本心で、これで料理人として働く夢は、ほとんどついえてしまったように感じていた。


「主人とは、離婚するんです」

「え……そうなの?」

「青池さん……お願いします。あの人を助けてください。あの人は、どういうわけか、今、絶対味覚のような能力を手に入れているようです。あんなに味音痴だったのに、なんで突然そんな事になったのかは、わからないけれど……青池さんの料理の力と、主人の舌があれば、きっと何か、凄い事が出来ると思うんです……私は、もう力になる事はできません。本当にすみません……でも、頼れる人は、青池さんだけなんです……」

「……」

 史郎は、花の頼みに首を縦にふる事ができなかった。しかし、確かにあの絶対味覚の力は使えるかもしれない。

「花ちゃんは、どうするの?」

「実家に帰ります。当分は両親が子供たちを見てくれると思いますし、保育園も空き次第入れるつもりです。私は、実家の近くのフレンチレストランで働くつもりです」

「そうなんだね……頑張って、私は、花ちゃんの幸せだけは、いつまでも祈っているよ」

「……」花は涙を止める事ができなかった。史郎が悠馬に手を貸さない事など、わかっていた。どうしてそんな事を頼んでしまったのかわからない。それだけ花も悠馬の事を愛していたのだ。

「本当に、申し訳ございませんでした……」

 花は頭を深く下げて、アオイケ亭を後にした。




 五名竜二は、グルメだ。休みの日に、話題の店を食べ歩きする事は、趣味の一つである。今日は、最近話題になっているこの『アンサンブル』という店で、予約が取れている。五名は珍しくウキウキしていた。なんせこのアンサンブルという店は、高級フレンチさながらの料理を安価で提供しているという。それはそれは人気が出て、予約を取るのも大変だった。そのうち何店舗にも増やして、チェーン展開してしまうのだろうか。そうなる前に、是非一号店で舌鼓を打ってみたいものだ、と五名は思っていた。

 アンサンブルのドアをくぐると、美しいセルヴーズ(フレンチレストランで女性給仕スタッフのマネージャーのこと)が、席まで案内をしてくれた。五名はこんな上品な女性が看護師だったなら、うちの山田姫凛といっそのことチェンジしてしまいたい、なんてことを考えてしまった。

 気取らない店構えだが、オープンキッチンで、なんとも上品な雰囲気を醸し出していた。料理はすべて最高で、このクオリティをこの値段で出せるのは、シェフの弛まぬ努力の結晶であるのだろうと思った。五名はオープンキッチンに足を運び、シェフと話しがしたいと頼んでみた。出てきたのは思いの外、高齢の男性だった。

「青池シェフですか?」

「はい、本日はありがとうございました」

「青池シェフは、スーパーテイスターなんですか?」五名は突然質問を投げかけた。

「いいえ、そんな事はございません」

「そうですか、いや、本当に素晴らしく繊細なお味だったものですから」

「とんでもない、お褒めの言葉ありがとうございます」

「これから、スーパーテイスターになれるとしたら、なりたくないですか?」

 五名はにんまりしながら史郎に問いかけた。

「いいえ、私にそのような力は必要ありません。私にはすでに、この腕があるのでね」

 史郎は、落ち着いて答えた。その目に宿る確固たる自信を五名は感じ取った。

「そうですか、それは失礼いたしました。私、精神科医をしておりまして、クリニックを持っておりますので、名刺を置いて行ってもよろしいでしょうか。本当に美味しかったですよ、またお伺いできるのを楽しみにしています」

 そう言うと、五名は軽く頭を下げて、その場を後にした。史郎も去りゆく五名に、深く頭を下げていた。

「こちら、よろしかったら持って行ってください」

 入り口まで見送りに来た美しいセルヴーズが、受付に置いてあるチラシを五名に手渡した。

「ほう、ヴァイオリンですか」

「青池シェフの姪御さんなんです。お時間ありましたら是非、チケットまだ余っているそうなので」

「クラシックは好きですよ。是非お伺いしてみたいものですね」五名はニコっと笑ってそのチラシを受け取った。

 素晴らしい料理を堪能して、意気揚々と帰路についた。そういえば山田にお土産を買うのを忘れてしまった。今日アンサンブルを訪れた事は、絶対にバレてはいけないな。と五名は思った。





 

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