絶対音痴 第7話 真相

『アオイケ亭』は、創業三十年にもなる老舗の洋食屋だった。史郎は、若い頃、フランス・パリにも修行に行っていた、正真正銘プロの料理人だ。フランスから帰国して、数年日本のフレンチレストランに勤めたのち、自分の店を開いた。しかし、その店は、本格フレンチではなく、地元の人に愛される洋食屋をモットーに、お腹が空いた会社員や、学生のために、毎日心をこめて料理を作る店となった。そしてアオイケ亭は、行列のできる人気店の地位を確立していった。しかし、新型感染症のパンデミックのおかげで、営業を制限しなければならなくなった。満席お客さんは入れられないし、夜も時短営業を余儀なくされ、行列を作らせる事も避けなければならない。その結果完全予約制にせざるを得なかった。売り上げももちろん下がっていく一方であった。年齢も年齢なので、そろそろ潮時なのかもしれないと、考えていたところ、悠馬の動画の影響で、さらに客足は減ってしまった。今まで常連できてくれていたお客さんにも、失望させてしまったと、申し訳ない気持ちになっていた。

『アオイケ亭』には創業以来ずっと通っている客がいた。その男が初めてアオイケ亭を訪れた時、史郎は、自分と同じ年くらいの青年だなと思った。店を開店して以来三十年、その男は週に三回ほど通い「俺は青池さんの味に惚れ込んでいる」と言った。その男のアドバイスでメニューを考えた事もある。史郎は、その男に名前を聞いた事はなかった。しかし史郎は、その男に、無二の親友のような感情を抱いていた。

「この店と共に、俺たちは年をとっている。でも、このビーフシチューの味だけは、年をとることはないなあ」ワハハと笑いながら男が言ったのをよく覚えている。

 感染症対策で、予約制になってからも、その男のために席を取ることは、少なくなかった。しかし、悠馬の動画が投稿されて以来、その男が来る事はなくなった。

 本気で閉店を考えていたある日の夜、店じまいをしていると、その男は史郎の元を訪ねてきて、こう言った。

「青池さん……残念だ……」

 史郎は何も言う事ができなかった。

「青池さんの料理。すばらしかった、信頼してた。残念だよ……」

 それだけ言うと、男は史郎の元を去った。その日、史郎は店を閉める事を決めた。




「本当に、本当に、申し訳ありませんでした……」悠馬は涙を流しながら謝った。

「いいえ、私ももう年ですし、感染症の影響もあって、店は閉めようかと迷っていたところだったんです。でもね、浅井さん。あなたは一つ大きな間違いをしている」

 史郎は、悠馬に一つの小瓶を手渡した。中には茶色い粉が入っていた。

「嗅いでみてください。舐めていただいても結構です。あなたは絶対味覚の持ち主なんでしょう? 心配しなくても、毒なんかではありませんよ」

 悠馬はまだ疑いながら、瓶の蓋を開けた。少し臭いを嗅ぐと、なんだか嗅いだ事のある香りだ。指につけて、おそるおそるなめてみると、あの時感じたビーフシチューの正体不明の味であるという事に気付いた。

「これは……あのビーフシチューに入っていましたよね……」

「ええ、これはコピ・ルアクというコーヒーです」

「え⁉︎ コーヒーですか?」

「コピ・ルアクはインドネシアで作られている、ジャコウネコという動物の糞から作られたコーヒー豆です。体の中で発酵され、未消化のまま糞として出てきたコーヒー豆は、その特殊な生産方法から、大変貴重で、高級な物です。これを私はビーフシチューに隠し味として入れていました。なんともいえない、独特なコクが出るんです。添加物などでは決してない」

 悠馬はまた涙が止まらなくなった。史郎が丹精込めて作ったビーフシチューに対して、自分の勘違いで、なんて風評被害を流してしまったのだろう。

「絶対味覚なんてものはね、この世にはないんだと私は思っています。ただ敏感に味を感じる事ができるから、自分の経験の中から味の記憶を引き出しているだけです。あなたはその敏感な舌で、これを感じ取ったんでしょうが、ろくに調べもせず、添加物のような毒素だと言い回った。この事は、私は料理への冒涜だと思っています」

 史郎は落ち着いた口調で悠馬に伝えた。悠馬はまた涙が止まらなくなっていた。また土下座の姿勢をとって、無言で頭を下げた。

「ああ、いえ、私はね、浅井さん。あなたを誘いに来たんですよ」

「え、どういう事ですか?」

「浅井さん、あなたの舌と、私の料理の腕を使って、新しいレストランを作りませんか?」

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