絶対音痴 第3話 目覚め、夢?
目がさめると、あれから二時間ほど経っていた。本当に大きな手術ではなかったらしい。そのままクリニックを出て、家に帰る事ができた。
「今日は早く帰ってきてって言ったじゃない‼︎ どうして私の言う事を聞いてくれないのよ‼︎」
家に帰ると、相変わらず花の叫び声が飛んできた。悠馬はうんざりとした気持ちになったが、ここは謝ることにした。
「ごめん、ちょっと病院に立ち寄ってて……」
「なんで? どこか悪いの?」
「いや、大した事ないよ」
「それでも、連絡できたでしょ‼︎」
よくもこう毎日毎日怒り狂う事が出来るものだ。本気で『離婚』の二文字が悠馬の頭をよぎった。
「何か話したい事があったんじゃないの?」
「今日はもういい‼︎ 疲れたから!」
完全に機嫌を損ねてしまったようだ。もちろん自分に用意された夕飯もない。今から外に食べに行くのも非常に億劫だった。悠馬は、残っている味噌汁にご飯を入れてかきこみ、そのまま眠りについた。
夢の中で、悠馬は、優しい顔で味噌汁を作っている花を見た。ああ、結婚したばかりの花は、毎日こんな顔をしていたのに。
翌日は休日だった。悠馬が起きた頃には、すでに正午を回っていた。こんな時間になるまで、花が起こしに来ないなんて妙な事もあるものだ。悠馬が寝室から出ると、家の中は静まり返っていた。
「ママ?
声をかけても返事がない。ダイニングテーブルに目を向けると、書きなぐったような文字でメモがある。
『しばらく実家に帰ります』
はあ…………。悠馬は大きくため息をついた。花の実家に電話をかけると、子供たちを連れてもう家にいるらしい。あちらのお義母さんと話して、当分実家に留まるので、迎えは今の所不要だという話になった。——まったくわかりやすい事をするものだ。いったい何に不満があるというのだろう。悠馬は、小遣いを上げろと頼んだことも、花に何か言い返したことすらほとんど無かった。
悠馬はもう一度自分の人生を深く後悔した。なぜ自分は花と結婚してしまったのか、なぜ今の会社で働いているのか。どこで道を間違えたのだろう。
しばらく花がいないのなら、こちらは自由に過ごせる。子供たちがいないのは寂しいが、この際一人暮らしを楽しもう。空腹で目覚めた悠馬は、コンビニで何か適当に買ってこようと考えたところで、昨夜の手術の事を思い出した。スーパーテイスターってどんな感じなのだろう。良いものを食べれば、何かわかるのではないだろうか。
普段行かないホテルのフレンチで、ランチを予約した。久しぶりに、こんなウキウキした気持ちで食事に来ている。ランチとはいえ、悠馬にとっては普段のお小遣い一週間分にも匹敵する。ドキドキしないわけがない。席に着くと、一瞬にしてギャルソンがワインとオードブル、後スープを持ってきた。
ワインを一口、そしてスープを口にした瞬間、今までに感じた事のない感覚が押し寄せてきた。美味しいとか、そういう感覚ではなかった。料理人が、スープを作っている映像が、頭の中に流れているようだった。このスープは、玉ねぎをバターでゆっくり炒め、ブイヨンを加えて、アク取りをした後、カリフラワーを加える。ミキサーにかけたのち、裏ごししてクリームを加える。ブイヨンは鶏ガラ、にんじん、玉ねぎ、セロリ、ポロワ葱、にんにくをゆっくり煮込んで十時間……
その後も、メイン、パン、デザートに至るまで、目の前で料理人が自分のためにレシピを教えてくれているような気持ちになった。無意識に、悠馬は感じた味をその場でメモに残した。
一通りランチを堪能すると、その足で、スーパーへ行き、食材を買い漁った。手に入らないものもあったので、そこは諦めるしかなかった。
悠馬はもともと料理は、ほとんどする方ではなかったが、こんな事細かなレシピがあるならと、家で作ってみることにした。何時間もかけてスープを作り、夜に口にすると、その味は、ランチで食べたスープに限りなく近かった。ただ手に入らなかったスパイスだけが抜けている味がした。こんなことってあるのだろうか……自分で自分にびっくりしていた。こんな才能が、自分に開花するなんて……悠馬は天にも昇る気持ちになった。
それから、悠馬は毎日、話題の店に足を運ぶようになった。行列ができるラーメン、予約が取れないイタリアン、地元民に愛された老舗の洋食屋。すべてのレシピが事細かに分かった。花たちはまだ帰ってこない。料理の腕も随分と上がった。手付きもほとんどプロそのものだ。悠馬は、ランチに有名な店で食事をし、夜になると自宅で再現してみる事が日課になっていった。
ここまで再現できるのならば、レストランでも開けるのではないだろうか。高級フレンチのクオリティを手頃な値段で提供できる。そんなレストランを作りたい。一つ悠馬に大きな夢が出来たのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます