絶対音痴 第2話 手術

 帰り道、なんとなくいつもと違う裏道を通ってみることにした。入った事もない小さな焼き鳥屋でもあったら、一杯ひっかけたい気分だ。そう考えて裏路地へ入ると、いかにも胡散臭い看板を発見した。

「幸せになりたいあなたへ……なんだこれ」

 古臭いビルの下に、どう考えても怪しい看板が立っている。しかし悠馬は怖いものみたさで入ってみることにした。刺激のないつまらない生活から、少しでも抜け出したい思いがあった。




山田やまださん……」

「……」

「起きてください、お願いしたい事があるのですが……」

「……」

山田姫凛やまだぷりんさん」

「!……次呼んだら、刺しますよ」

「お願いだから、お仕事してください、それに、素敵なお名前だと思いますがね」


 五名竜二は、この助手として雇った看護師、山田姫凛が一筋縄ではいかないことに頭を抱えていた。今日はピンク色の髪の毛に変わっている。最初は、女性の見た目の変化に反応していたが、指摘するたびに、ものすごい形相で睨みつけてくるので、触れるのをやめる事にした。しかし、能見総合病院にいた時からそうなのだが、この山田姫凛という女は、普段の態度の悪さとは裏腹に、適切な処置と、その的確な仕事ぶりに五名も文句が言えない存在となっていた。五名は、もはや山田なしには、仕事が厳しい状態になっていた。しかし、その距離感は一ミリも縮まっていない。

「山田さん、能見総合病院の時の履歴書拝見しましたけど、京大法学部卒業なんですね。なぜ看護師に……?」

「……そんな事話してやる義理はありませんが」山田は、五名の方に顔も向けずに言った。


 ピンポーン


「こんにちは」山田が面倒くさそうに言い放った。

「あの、すみません、たまたま下の看板を見て入ってみちゃって……予約とかしてないんですけど、大丈夫ですか?」

「はい、どうぞ。お入りください」




 古臭いビルに、怪しい看板。しかしクリニックの中は、相変わらずデザイナーズマンションのようなオシャレな作りをしていた。悠馬は、白衣を着た蛇のような男と、ナース服を着ているギャル女に目を向けて、ここは病院なのか? コスプレ喫茶なのか? と頭を巡らせた。五名は悠馬を診察室に案内した。

「浅井悠馬さんですね、お悩みはなんですか?」

「あの、ここって何屋さんなんですか? 病院なんですか?」

 悠馬の問いに五名は珍しく目を丸くして、驚いた。

「ここはメンタルクリニックですよ、浅井さんはどうやってここへいらしたんですか?」

「下に、『幸せになりたいあなたへ』って看板見て、入ってきちゃったんですけど……」

 五名はため息をついた。また山田がくだらない一人遊びをしたものだ。

「それは、失礼いたしました。浅井さん、何かお悩みがあるなら、解決しますよ」

 五名は何事もなかったかのように診察に入った。

 悠馬は最初、こんな蛇のような男のことは、信用できまい、と思っていたが、まっすぐこちらを見つめている五名の視線に、不思議と心を許してしまった。

「最近同級生に再会して、彼女が才能のあるヴァイオリニストで、私にもあんな才能があったら、人生は変わっていたのかな、なんて突然思ってしまって……」

「ほう、でも、芸術家というのは、それはそれで大変なものなのではないですかね」

「彼女、絶対音感を持っているんです。それでテレビに出る事も多くて。自分にもあんな力があったら、もっと輝かしい人生になっていたんじゃないかな……」

 悠馬には五名の言葉はあまり耳に入っていないようだった。それからも、悠馬は自分と成美の才能と人生の差について、つらつらと語った。

「あなたも、絶対音感が欲しいんですか?」五名は悠馬に訪ねた。

「いえ、私は音楽とかはできないので。でも何か、今からでも身につけられる能力って無いものでしょうか……」

「ありますよ」

 五名は、怪しく微笑みながら答えた。


「食べることは好きですか?」

「え? ええ、普通に、好きです……」

 悠馬は、五名の言葉の意味が何を意図しているのか、想像した。しかし、悠馬の想像力では、答えにたどり着くのは難しかった。

「スーパーテイスターってご存知ですか?」

「……? いいえ……」

「絶対音感をもじって、絶対味覚なんていう人もいます。絶対音感とは、聞いた音の周波数を、知っている音階の音に当てはめて答えることのできる人、と私は理解しています。絶対味覚というのは、食べた物の味が、今まで食べた事のある味の情報の中から引き出せるというわけです」

「……つまり?」

「食べた物の食材、調理法、調味料などが事細かにわかるということです」

「へえ! 面白い! どうやったらそれ、なれるんですか?」

「私の脳手術で」

 悠馬は、急な一言に驚愕した。突然手術の話をされるとは思わなかった。今更冷静になって、なぜ自分は今この椅子に座っているのだろう……という気持ちになってきた。ここはメンタルクリニックと言っていなかったか。精神科で手術などするものだろうか。

「私の専門はもともと、脳外科だったんです。心配しなくても、大きな手術ではありませんよ。少し脳の回路をいじるだけです。みなさんやられていますよ」

 悠馬は、もう一度五名の顔を見た。直感でわかる、絶対に信用してはいけない顔だ。しかし、悠馬はすでに、五名の細い眼鏡の奥に光る金色の瞳に捕らわれていた。

「……お願いします」

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