絶対音痴 第1話 浅井悠馬のケース
こんな気持ちになったのは、久しぶりだった。若いというのは、本当に素晴らしい。前しか見えていない時代が、人生にとって一番の財産なのだ。部活、受験、そして恋。汗臭い青春。
——
久しぶりに、仕事にも家庭にも縛られずに、羽を伸ばせた気がしていた。あの時のあいつも、そこのあの子も、順調に年齢を重ね、それぞれの人生を歩んでいる。みんな懐かしい。二十年経ったって、あの青春は色褪せることはない。そして、一番会いたかった彼女も、今日は来ているはずだ。
「
「え!
「宮脇さん、この間もテレビ見たよ、すごい活躍だね」
「やだー、宮脇さん、なんて。成美でいいよ! 見てくれたんだね、ありがとう!」
中学の時の成美は、いつも忙しそうだった。学校が終わると、母親がいつも迎えに来ていて、ヴァイオリンのレッスンに通っているようだった。成美には当時、少し近寄りがたい印象があった。友達も多い感じはしなかったし、クラスの男子たちの高嶺の花であり、ちょっかいも出さなければ、すり寄っている奴なんかもいなかった。そんな成美と隣の席になった時の事を、悠馬は今も忘れていない。
悠馬が消しゴムを落とした時に、拾ってくれたのは隣の席に座っていた成美だった。椅子からかがんで消しゴムを拾う時に、ふんわりといい匂いが髪の毛からただよってきた。
「はい、どうぞ」「あ、ありがとう……」悠馬は、顔が熱くなっている事を隠すのに必死だった。
しかし、中学の時は、成美とちゃんと仲良くなる事が出来なかった。それだけが悠馬の心残りであった。今日、この同窓会に成美が来たら、必ず声をかけようと心に決めていた。
「じゃ、じゃあ、成美……さん、すごいね、絶対音感を持っているんだってね」
「うん、生まれつきなの。でも、音楽家として、そこまで特殊な能力ではないけどね」
成美は有名なヴァイオリニストになっていた。美しすぎるヴァイオリニストとして、テレビに出演している事も多かった。先日の番組では、”絶対音感の生体を探る” というもので、成美も絶対音感を持つ人間の一人として出演していたのだ。
「おー、宮脇、こないだのテレビ見たぞー」「ねー! すごかったよねー」
周りの奴らが、成美の元に集まってきた。俺のターンもここまでかな。悠馬は、成美の元からすこしずつ離れていった。
今日は、悠馬にとっていい日だった。毎日つまらない会社員生活。家では妻の
「遅い‼︎ 何時だと思っているの!」
花は、こんなに夜遅くだというのに、声を張り上げた。
「おい、子供達が起きちゃうだろ! 静かにしろよ、連絡しただろ」
「お前が言うな‼︎」
花は相変わらずものすごい剣幕だ。なぜ、この女は、いつもこんなに声を張り上げる事ができるのだろうか。
「いっつもそうよ! どうして言われた事ができないの! どうして‼︎」
今日は、いつになく激しい、花は一通り悠馬に怒鳴り散らした後、そのまま子供達のいる寝室へ入ってしまった。せっかくいい気分で帰ってきたのに、台無しにされてしまった。悠馬は、そのまま自分も寝る気持ちには到底なれなかったので、おもちゃの転がっているリビングのソファに座り、テレビをつけた。
テレビの中では、成美がまたヴァイオリンを弾いていた。とても心地よい音色だ。成美の人間性がヴァイオリンの旋律となって、悠馬を慰める。
「はあ。どうして結婚なんてしちゃったんだろう」
誰もいないリビングで悠馬はつぶやいた。成美が妻だったのなら、どんなに良かっただろう。子供達とは離れたくないが、花とはもう別れたいのかもしれない。毎日会社に行き、特に生産性のない作業をこなし、家に帰ると花の怒号に付き合わされる。中学生の時、特に具体的な夢があったわけではなかったが、毎日が楽しかった。夢に夢見ていたあの頃。大人になったら、自然とやりたい事が出来て、夢に向かって突き進み、愛する人と優雅な暮らしをするものだと思っていた。しかし、現実は、小さな社宅に家族四人。唯一の楽しみは、シミだらけの絨毯とシミだらけのソファの上に座り、限界まで音を小さくして見る、夜中のお笑い番組。
悠馬はテレビの中の成美を眺めながら思った。俺の人生こんなはずじゃなかった。俺にも成美のような才能があったのなら、彼女のような輝いた人生になっていたのだろうか。
「今日は、早く帰ってきてよ」
翌朝、家を出ようとしている悠馬に、お弁当を渡しながら花が声をかけた。悠馬は何も返事をせずに、お弁当を受け取ると家を出た。
「いいなあ、毎日愛妻弁当か」
昼休み、同僚が話しかけてきた。悠馬は花が持たせたお弁当をデスクの上に開いたものの、食べる気がしなかった。花の怒り狂った顔を思い出すと、どうにも箸が進まない。
「お前、これ食う? 俺コンビニでなんか買ってくるわ」
「え⁉︎ なんで? いいのかよ」
悠馬は、向かいのコンビニで『激辛MAX辛味ラーメン胡椒添え』を買い、お湯を入れて戻ってきた。
「うわー、なんだか舌がバカになりそうなラーメンだな、奥さんの弁当、めっちゃ美味いよ」
「……そうか?」
実は、悠馬は花の料理に魅力を感じた事が無かった。味覚が合わないとはこういう事なのだろうか。
「お前、味音痴なんじゃねーの?」同僚が悠馬をバカにしたように言った。
「うっせー、ちげーよ」
定時が過ぎた。今日もつまらない一日が終わろうとしている。悠馬は家に帰るのも億劫だった。今日は特に、花の顔を見る気がしない。花と付き合ったばかりの時、顔が見たくて、声が聞きたくて仕方がなかったのに、こんな日が来ようとは、あの日は想像もしていなかった。夫婦というものは世知辛いものだ。今後の人生が四十年、五十年あるとして、一生このままの生活で自分は良いのだろうか……悠馬はつくづく成美が羨ましくなった。
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