獏に奪われた エピローグ
「お待たせしました、どうぞ」
ドアの奥からかすかに声が聞こえた。男は診察室と書かれたドアを開けた。
「ご無沙汰しています」
「どうですか? その後の様子は。最近いらしてなかったですけど」
「ええ、順調です。あれからはありません」
「それはよかった。あなたが私の手術を受けたのは、もう8年くらい前ですかね、敷島さん」
「はい、五名先生も、ずいぶん立派なクリニックをお持ちになられましたね」
敷島京太郎にとって、大学生活は地獄だった。いつも隣にいる男の事は、憎くて憎くて仕方がなかった。いまだに、あの時言った莉子の言葉を思い出す。
「正直に言う。私、矢倉くんと付き合うことにしたの。いい加減わかってほしい」
俺は、俺だけは、高校の時からずっと莉子だけを見つめていたというのに。
「敷島。お願いだから、私の事もう解放して。あなたの事を好きになる事は絶対にない。これ以上つきまとうなら、警察に行く。だいたい、大学まで付いてくるなんて信じられない。あなたから離れたくて、私は東京に来たのよ」
どうしてわかってくれないんだ、莉子。莉子には俺が必要だろう。俺がいないと何もできないじゃないか。危なくて仕方ないじゃないか。どうして俺の物にならないんだ。京太郎は長年同じ事を思い続けていた。
莉子は、京太郎が変わる事を望んでいた。莉子は、高校の時から、京太郎のストーキング行為に頭を悩ませていたが、何かしてくる事はなかったので、大事にはしたくなかった。晴人が、奇しくも大学で京太郎と仲良くなってしまった。晴人が莉子に京太郎を紹介してきた時、莉子は心臓が止まるような思いだった。しかし、京太郎の事を信じきっている晴人に、莉子の胸のうちを明かす事は出来なかった。
あの日、旅行で行った那須高原で、京太郎は、寝ている晴人の首に手をかけた。
「敷島! やめて! お願い!」
莉子が気付いて、涙を流しながら声にならない声で叫んだ。
京太郎は、その声に、自分がやろうとしている事が恐ろしくなって、宿を飛び出した。
外は真っ暗だった。一刻も早くその場から去りたかったが、あたりには遠くへ行ける手段などは、何もないようだった。
「どうかしましたか?」
突然蛇のような男が、京太郎に話しかけてきた。
「私は医者です。何かお悩みがあるのではないですか? 解消してあげますよ。あなたの悩み」
突然何を言われているのかわからなかったが、京太郎はもう、その細い眼鏡の奥に光る、金色の眼光に捉えられていた。
「憎しみの感情を、消し去る事はできますか……?」京太郎の目からは涙が溢れていた。
「——ええ、できますよ」
男は答えた。それからの事を、京太郎はあまり、覚えていない。男に連れられて、何か手術をした。目が覚めたら、病院の病室のようなところにいて、窓からみえる空は、すでに白んでいた。
「敷島さん、もう終わりましたよ。朝日が昇りきる前に、お友達のところへ帰ってあげた方がいいんじゃないですか」
宿へ戻ると、もう食堂で莉子と晴人が朝ごはんを食べていた。
「京太郎! お前こんな朝早くにどこに行ってたんだよ!」
晴人が口に物を含ませながら言った。莉子は恐怖におののいたような目で、京太郎を見ている。
「悪い、ちょっと朝早く起きちゃったから、一人で散歩してたんだ」
京太郎は二人を見ると、笑顔が溢れた。心からの笑顔だった。初めて、心から笑う事が出来た。もう晴人の事も、莉子の事も憎しむ事は無いんだな。そう思うと、笑いながら、また涙が溢れた。
「うわ! お前、いきなり何泣いてんの⁈」
「泣いてねーよ、花粉症だよ」
「矢倉晴人に何をしたんですか?」
「さあ、誰の事ですか? それに、患者さんの個人情報はお話できません」
「あいつ、多分死にますよ」
「敷島さん、私は、あなたが幸せそうで、何よりです」
「俺の周りにも、あなたの患者がいるみたいで、悪い噂流れてますよ」
「敷島さん……あなたは何をしにここへ来たのですか?」
「……」
京太郎は、五名が何も喋らない事を悟り、軽く頭を下げて、その場を後にしようとした。五名は入り口のドアまで、京太郎を見送り「敷島さん、あなたの幸せを祈っています」と声をかけた。京太郎がその声に反応しようか、迷っていると、
「お大事にー」
受付の金髪のナースが、京太郎にめんどくさそうに言った。京太郎はそのナースをジロジロと舐め回す様に見た後、五名の方を振り返った。
「先生、彼女……かわいいですね」
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