獏に奪われた 最終話 獏に奪われた

 生活習慣病とは恐ろしいものだ。あれから一年経って、運動をする事も禁止された。心臓に負担がかかるからだ。一度ジムで走っていたら、心臓麻痺にあい、心停止して緊急搬送された事だってあった。めまいや立ちくらみも尋常じゃないほど起き、仕事もできなくなった。会社はすでに、他人の手に渡っている。晴人はすべてを失った気がした。こうなったのもすべてあの男に出会ったせいだ。あの蛇のような男。あの金色の眼光が頭から離れない。晴人はもう一度、五名メンタルクリニックへ向かった。


 クリニックはあの時のまま、デザイナーズマンションのようにオシャレな風格を保っている。ここだけは時間が止まっているような、そんな感覚に襲われた。クリニックの入口のドアをくぐると、相変わらず誰もいないようだ。と思ったら、相変わらず、今度はほとんど金髪になってしまった、あの失礼なナースが受付に座っていた。

「……はいー、お客さん?」

「はい! 五名先生いらっしゃいますか⁉︎」晴人は食い気味に訊いた。

 ナースは晴人の顔をジロジロと見ると、ゆっくりとパソコンに体を向けた。「どうぞ」と小さな声で言うと、診察室を指差した。晴人は、そのまま診察室の扉をノックすると、わかっていたかの様に「矢倉さん、どうぞ」という声がかすかに聞こえた。

「矢倉晴人さん。お久しぶりです、どうですか? その後調子は」

「五名先生! 元に戻してほしいんです! このままでは、体がついていきません!」

「矢倉さん、落ち着いてください。——まあ、それはそうですよね。脳しかいじっていないのですから」

「このままでは、本当に俺は、命の危機に陥りかねないです! もうすでに重度の疾患が次々と出てきていて」

「でも矢倉さん、あなたは幸せなのでは?」

「幸せ⁉︎ 俺の体は、もう、まだ若いのに大変なことになっているんですよ!」

「それは、残念ですね……しかし私は脳外科医ですから、そちらの責任はとりかねます」

「そんな無神経な! あなた、こんな事して、訴えますよ⁉︎」

「私が、あなたに手術をした証拠なんてあるんですか?」

 カルテには、心因性うつ病と書かれていた。ここは精神科である。晴人は、その場に崩れ落ちてしまった。すると、あの受付に座っていた失礼なナースが、晴人の体を起こす手伝いをしてきた。

「あなたの選んだことですよ」ナースは晴人の耳元でつぶやいた。

 晴人は、よろよろとナースの手を借りながら、クリニックのドアを出た。

「矢倉さん、あなたの幸せを祈っています」

 五名は、晴人の背中に、そう言い残した。




「矢倉さん、そろそろ……入院した方がよいのでは……」

 医者は言った。晴人は目の前が真っ暗になっていた。足も以前の倍ほどに膨れ上がり、車椅子での生活を続けている。きっとこの足も、こじらせすぎた糖尿病で、切り落とさなければならない様だ。

「矢倉さん、経済的にはほとんど問題ないんですから、そろそろ介護療養型医療施設などで、療養した方がよいかと……これ以上は、いつ何が起きてもおかしくないんですよ」

 晴人の体は、すでに、薬だけではどうにもならない所まで来ていた。心臓もいつ止まってもおかしくない。



 

 病院のベッドで、晴人は天井を眺めていた。もう体も動かない、このままいっそ死んでしまいたい。一日がとてつもなく長く感じられた。あれからどのくらいの時が流れたのか、数えているのも億劫になるほどの年月が経っている気がした。

 晴人は、今までの自分の人生を振り返っていた。学生時代、悪夢にうなされていた時の自分を思い出す。あの時は眠るのが辛かった。眠ることが怖かった。起きている時に、楽しいことをたくさん経験しようと思っていた。サラリーマン時代、睡眠時間を求めていたあの日を思い出す。

 今は、もう生きていることが辛かった。監獄にいるような生活に感じられた。思考だけが元気に活動していることが、もはや恨めしい。

 そういえば、あの男に出会った時から、一度も夢を見ていない。いい夢も、悪い夢も。何も見ていない。きっとこれからも見ることはないだろう。あの男の名前はなんと言ったか、金色に光る蛇のような眼光だけが、晴人の脳裏に焼き付いている。

 今度は、莉子とたくさん夢の話をしたことを、晴人は思い出していた。人間は夢を見るものだ。人間は自分の将来の願望のことを、なぜ『夢』と名付けたのだろう。晴人は、自分の『夢』も全て奪われた気がしていた。自分の『夢』って何だっただろう。ああ。京太郎と莉子と、また三人で旅をする事だったかな。小さな『夢』なのに、叶うことはもう無いんだな。

 晴人の目に涙がつたった。


 チャリン……


 ベッドの脇においていたスマホから、獏のキーホルダーが垂れ下がった。

「そうか……お前のせいだったのか……」

 晴人には、獏が前よりもずっと膨らんで太っていて、牙が生えているように見えた。そうか、この獏が、悪夢のみならず、全ての夢を食べてしまったのか。

「お前……食いすぎだよ……」

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