獏に奪われた 第3話 手術
五名竜二は、能見総合病院を退職した後、一条家から受け取ったお金で独立し、開業医として新たな一歩を踏み出すことに成功していた。随分綺麗なクリニックを建てられたものである。しかし、五名についてきてくれる看護師や、助手などは、もちろんなく、一人でのスタートだった。数ヶ月後、さすがに一人では手が回らなくなった五名は、助手として、能見総合病院でくすぶっていた、やる気のないナースを引き抜いた。このナースは能見総合病院では、ほとんど夜勤しかしなかった女である。仕事が少ない夜を狙ってシフトを入れている変わり者だったのだ。会うたんびに髪の色が変わっているような、そんな女だ。しかし、この女、非常に頭の切れる、やり手であることを、五名は見抜いていた。
彼女が夜勤をする時、急変患者は決まって出なかった。彼女の処置が適切なのか、何をしているのかはわからなかったが、静かで暗い夜を守る、夜の女王だ。と五名は勝手に想像していた。加えて、五名の謎の動きや怪しい行動を見ても、絶対に口を出さず、他言もしないことを五名は知っていた。片腕として最適な相手だったのだ。
一人の蛇男と、変わり者のナースの二人で始まったクリニックだったが、次第に、なぜか精神科医として名が売れるようになっていった。
五名竜二は、脳外科医だ。脳の手術をすることが専門だった。しかし、いくつかの手術を請け負ううちに、患者を幸福へ導いているという噂が立ち、看板もメンタルクリニックに名前を変えた。無論、精神疾患の患者を見た事など、これまでに一度も無い。
晴人は、五名メンタルクリニックが入っているであろうビルの前に着いた。まだ昼間だというのに暗い裏路地にぽつんと立っている、古めかしいビルだ。こんなところに病院を入れているなんて、精神科なんてやはり普通の人が行くところではない。そう思って引き返そうとしたところで、今日は会社を無断欠勤してしまったことに気づいた。診断書でもあれば、言い訳ができるかもしれない。晴人は少し尻込みしたが、ビルのエレベーターを上ることにした。
クリニックの自動ドアを超えると、そこは打って変わって精神科とは思えないほど明るく、デザイナーズマンションのようなオシャレな内装をしていた。晴人は、精神科に偏見を持っていたが、このような雰囲気なら入りやすい、と少し安堵した。
「……すみませーん」
受付の前で声をかける。綺麗な病院には誰もいる気配はない。
「……はいー、お客さん?」
と思ったら受付に、細身で長身なひどく明るい茶髪の、看護師と思わしき女性が座っていた。頬杖をつき、眠そうな顔をして、こちらを見ている。
「すみません、予約してないんですけど……」
「今日は先生いるし、患者さんも少ないんで。どうぞ」
「先生がいない日もあるんですか……?」
「……さあ」
なんて対応だ。こんなに綺麗な病院には似つかわしくない受付嬢だ。すぐさまチェンジしたほうが良いのではないだろうか……こんな病院には、笑顔の似合う、美しいコンサバ系女子が受け付けていたほうが、患者も気持ちが良い。晴人はくだらないことを考えていた。
待合室には誰もいなかった。晴人は一人で待っていると、「矢倉さん、どうぞ」という声が遠くで聞こえた気がしたので、恐る恐る診察室と書いてあるドアをノックして開けた。
目の前にいる男は、細い眼鏡の奥に金色に光る眼光を持っていた。こんな男に自分の悩みを打ち明けても、わかってもらえるような気は全くしなかった。
「矢倉晴人さん? ですね。初めまして、五名竜二です。今日はどうされました?」
「五名……先生……」
「はい、そうですよ」
「ここは、精神科なんですよね」
「はい、まあ、表向きには。でも私は本当は脳外科が専門なんです」
「え……脳外科ですか……」
「はい、でも最近は脳を少しいじることで、生活習慣や、ちょっとした能力を高める手術をしていまして。それに尾ひれがついて精神科と呼ばれることが多くなったもので、精神科だと思っていらっしゃる患者さんが増えまして。それで、そういうことにしたんです」
「そうだった……んですか」
「ええ、それで矢倉さん、お悩みは?」
「え、じゃあ……ショートスリーパーになることも……できるんですか?」
「——ええ、できますよ」
手術はとても簡単なものだった。数時間眠っているうちに、すべてのことが終わっていたようで、その日のうちに、クリニックを出ることができた。外に出ると、空の色が青く見えた。
手術のことは、内密にするように約束させられ、誓約書も書かされた。診断書には、キラーストレスによる、心因性うつと書かれている。「お大事にー」と面倒くさそうに放ったあの受付ナースの声を思い出して、晴人は少し笑けてきてしまった。
手術を受ける前と後では、特に何も変わった気がしなかったが、ふと晴人は、五名の話を思い出した。
「ショートスリーパーというのは、つまり、レム睡眠が少ない体質の人のことですね」
「……はあ」
「人間は、眠っている時、レム睡眠とノンレム睡眠を繰り返しています。レム睡眠は、夢などを見ている浅い眠りの状態を言います。つまりレム睡眠をなくしてしまえば、人間は短時間でぐっすり寝たという実感ができるということです」
科学的なことは、よくわからないが、つまりそういうことなのだ。
自分の部屋に帰ってきて、汚い部屋を目にしたところで、今日は丸一日無断欠勤してしまった事に気付き、事の重大さに背筋が凍った。明日どんな顔をして出社すればいいのだろう、それ以前に自分の席はまだあるのだろうか。突然心臓の鼓動が早くなってきて、そのまま頭まで布団をかぶり、無理やり眠りにつくことにした。晴人の頭は、翌日の出社の事でいっぱいで、今日起きたことなんて、ほとんど忘れてしまっていた。
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