獏に奪われた 第2話 絶望
また日が昇ってしまった。午前六時。
嫌になるほど、燦々と陽の光が部屋中に降り注いでいる。先月、京太郎の家で飲んだ日の夜、真っ黒な空に、街中のネオンの光があんなにキラキラとカラフルに光り輝いていたというのに、今は太陽の光が恨めしい。あの日のことが、晴人には昨日のように思えた。
会社に着き、扉を開けた瞬間、今日も上司の怒鳴り声と共に朝がはじまった。上司は茹で蛸のように顔を赤くしながら、晴人を見つめている。今の声は、自分にむけられたものだったのかと、晴人は今更気付いた。
上司の怒り顔はすでに見慣れてしまいすぎて、もう何に関して怒鳴られているのかも、晴人の耳には入ってこなかった。目の前がぐるぐると回っていき、目の前にいる女性社員と、奥にいる上司の姿が混ざって見えた。
「何とか言えよ! ——矢倉!」
「……大変、申し訳ございませんでした」
晴人は、目が回りながら、床に座り込み、地べたに額をつけた。
「よく、恥ずかしげもなくそんなことができるな! 自分の立場をわきまえての行動だろうな!」
上司は、晴人の頭に足を置いた。
「……大変、申し訳ございませんでした」
「聞こえねーよ!」
「申し訳ございませんでした! 申し訳ございませんでした!」
晴人は何度も何度も叫んだ。
「もうやめろ、お前、うるさい。さっさと仕事しろ」
「……はい、申し訳ございません」
夜十一時、晴人はまだ会社にいた。パソコンに向かって、うつキーボードの音が、テンポよくうつドラムセットの音のように聞こえる。晴人は今、一回でも瞬きをすれば、そのまま意識が遠のいていくような気がして、目を閉じることはできなかった。
やっとの思いで契約書を完成させ、パソコンを閉じる。パソコンのライトが消えた事務所の中は真っ暗だったが、窓の外にある広告のネオンだけが晴人を照らしている。椅子から立つことも辛かった。しかし、これからまた家に帰らなければいけない。電車はまだある。たった六駅の距離が、とてつもなく長く感じられた。最後の力を振り絞って、家に着き、そのまま床に倒れこむように晴人は眠りについた。
日差しはすでに、高く昇っていた。体中が痛いし、重い。頭も痛い。スマホを手に取ると、十時を回っている。完全に遅刻だ。鬼のように上司や同僚から着信履歴やメールやチャットも入っている。
晴人はもう限界だった。スマホに映し出された言葉は、自分に対する心配の声よりも、罵詈雑言の方がよっぽど多い。大人になってからこんなことは初めてだったが、顔に手を当てると、涙が流れていた。足は、もう会社に向いていかない。随分前からすでに、晴人の世界は色をなくしてしまっていることに気づいた。
鞄の中に手をかけると、見覚えのない紙切れが飛び出してきた。名刺のようだ。そうか、先月京太郎の家に行った時に、もらったものだということを思い出した。あの時は酒も回っていたので、京太郎が何を言っていたのか、よく覚えていないが、どうやら精神科クリニックのもののようだ。
晴人はゴミ箱に捨てようとしたが、冷静になって考えてみた。自分でも心も体も参ってしまっていることはわかる。精神科なんて、信じられるようなものではないと思っていたが、現実問題、眠りも浅いし、食欲もない。かと思えば家に帰ると、気絶するように倒れこむことも多い。それよりなにより、これから会社にいかなければいけないなんて考えられなかった。晴人は覚悟を決めて、『五名メンタルクリニック』へ足を運ぶことにした。
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