獏に奪われた 第1話 矢倉晴人のケース
電話が鳴った。携帯電話という文明は、全く何ていうことをしてくれたのだろう。スマートフォンというものが出来てからは、もっとひどい。二十三歳の
「はい、もしもし」
「おい、いつまで寝てるんだ! 新人なら早く出社しろ!」
そんな怒鳴り声とともに電話は切れた。
午前六時、昨日は思ったより早く帰れたと思っていたが、全く寝た気がしなかった。さきほど帰宅したと思ったのに、もう日が昇っている。夢の中でさえ、仕事中に激しく怒鳴られていたからだろうか。これはもう、職業病だろう。
晴人は、もう一度さきほど取ったスマートフォンを眺めた。こんなものがなければ、自分の人生は違ったものになっていたに違い無い、なんてくだらないことを考えながら、浴室へ向かった。
体がだるい。昨日も何も食べずに、スーツのまま気絶するように眠ってしまったらしい。体重は落ちているのに、体は鉛のように重かった。今日を乗り切れば、明日は日曜日。花金なんていう言葉はどこかのドラマや、古い小説で聞いたことがある。良い時代があったものだ、このご時世のサラリーマン社会に、そんな夢のような言葉がまた生まれればいいのに、と晴人は思った。
深夜二時。帰宅。
仕事が終わった後、帰宅しようとしていたところを上司に引きとめられ、先ほどまでキャバクラで接待。その後、会社に戻って書類の整理。終電はないが、タクシーに乗るお金も惜しかったので、線路沿いをつたって六駅分歩き、ようやく自分のアパートに到着し、自宅のドアの前で立ち尽くした。やっと家に帰れたというのに、ドアを開ける力も湧かなかった。
晴人は、一度大きくため息をつき、その勢いでドアを開けた。自宅というのは落ち着ける環境のはずなのに、外から入ってくる光で、薄暗く見えている自分の部屋は、ゴミ屋敷のように汚く、気が滅入る思いだった。それでも、その日は、夜のうちに、シャワーを浴び、歯を磨いて、ゴミをかき分け、布団に入ったら、もう三時を回っている。まず、晴人はスマホの電源を切り、眠りについた。
目がさめると、部屋はオレンジ色に染まっていた。体中汗でびっしょりだ。
ひどく恐ろしい夢を見た。ゾンビの姿をした、自分に追いかけられる夢だ。必死に逃げ回ると、ゾンビ化した自分が大量に現れ、逃げついた先に自分を待っている。眠っただけでとっても疲れてしまった。
スマホの電源を入れると、夕方四時を回っている。
眠っている間に一日が終わってしまったと、晴人は絶望感に襲われた。しかし、こんなに長いこと寝ていたなんて、自分はもう死んでしまうのではないか。寝すぎたせいか、体は相変わらずだるい。さすがに何か食べないと。もう二日くらいまともに食べていない気がした。
チャリン……
何か音がした。音がした方へ向かうと、引き出しの中にバクのキーホルダーが見えた。「お前か……」
そういえば、長らく身につけていない。晴人はキーホルダーを、自分のスマホにくくりつけて、外へ出た。
近所のラーメン屋に入り、食券を買って席に着くと、こちらをジロジロと見つめている男が近づいてきて、話しかけてきた。
「え、晴人……? 久しぶりじゃん! 元気だった?」
それは少し懐かしい顔だった。大学同期で同じゼミだった
晴人は、大学の時からずっと同じアパートに住んでいる。熊本の田舎から大学入学を機に上京してきた晴人は、学生時代、絵に描いたようなキャンパスライフを送っていた。勉学もそこそこ真面目に取り組んでいたし、サークル活動も飲み活も、精力的に行っていた。中でも、ゼミで一緒だった京太郎とは、大学で初めて知り合ったというのに、同じ九州出身ということもあり、旧知の仲というくらい気が合った。京太郎は、晴人と同じ最寄り駅の近くの違うアパートに住んでいた。そのため、当時はお互いの家で朝まで飲み明かすことも少なくなかったのだ。
「晴人、最近全然、会ってなかったじゃん! 仕事どうよ? 莉子とは、どうなってんの?」
「莉子……そんなのとっくに終わったよ、お互い仕事も忙しいしな」
「うわ、まじか、ごめん……まあそうか……仕事きっちーよな……莉子もいまや、テレビの中の人だしな……」
学生時代、晴人には恋人がいた。
そんな三人の未来を分けたのは就活だった。晴人も莉子も京太郎も、マスコミ関係に就職希望だったのだが、特に莉子は、ミスコンでスカウトされたことをきっかけに、あっという間に、キー局でのアナウンサーに内定を決めた。京太郎は、一足先に、中堅の出版社に編集者として内定を決めたが、晴人だけは違った。晴人は、いつも最終面接を超える事が出来なかったのだ。ギリギリまで内定をもらえなかった晴人は、焦りを感じ、数を打てば当たる方式で、職種にこだわることなく就職試験を受け、今のコピー機の製造会社に営業担当として内定をもらった。しかし、そこがつまりブラック会社だった。
入社した途端に、晴人は気づいてしまった。毎日毎日怒鳴られる日々、先輩には、ろくに仕事を教えてもらえない。そして、毎晩接待に連れまわされ、夜中に帰宅。新人は誰よりも早く出社しなければならないらしかった。最初は、不満を抱えていたが、入社して半年弱。不満を抱える気力すらなくなった。毎日体力と精神力を奪う日々。生きるために働いているのか、働くために生きているのかもわからなくなっていき、睡眠時間もとれないので、集中力が落ち、仕事でもミスを連発し、さらに怒鳴られまくる。晴人はもう、ほとんど限界のところまで来ていた。
入社してすぐ、莉子ともすれ違っていった。莉子は、突然普通の女子大生から、テレビに出演する立場になり、戸惑うこともストレスを感じることも、少なくはなかったようだが、晴人はその話を聞いてやる余裕もなかった。そのうちに連絡を取り合うことも少なくなり、自然消滅の様な感じになってしまったが、ある日、莉子から突然連絡が来て、『好きな人ができたの、私たち、もう別れてるよね』とメッセージがきた。その時、晴人は返事ができなかった。莉子のことを好きではあったが、社会人になってから、莉子のために時間をとってやることは、ほとんどなかったので仕方がない。とは思いつつもショックな気持ちが大きかった。しかし、そんな考えに悩まされないほどに、朝がやってきては、仕事に行くしかなかった。
この時、京太郎に声をかけられなければ、彼の存在に気づくこともなかったのかもしれない、そう思うと自分が怖くなってきた。
「俺もさー、大変だよ。一筋縄ではいかない作家さんとかもいてさ……特に大御所だったりするとさ」
「それでも、京太郎、結構明るい顔してるよ、うらやましいよ」
「晴人……どうしたんだよ。お前、仕事そんなにきついのか?」
「正直言ってキツイかな……今日もさっき起きちゃったところだよ。毎週休みの日だけが楽しみだ、最近は携帯が鳴るのもビクっとするしな」
「えー……それやばいって……なあ、これ食ったら久しぶりにお前んちで飲まねー?」
「いや、ごめん、うちは無理だよ。ゴミ屋敷みたいに汚いんだ、掃除する時間すら全然なくて……」
「じゃ、うちこいよ!」
京太郎の誘いに、晴人は久々に晴れやかな気持ちになり、口元が緩んだ。
京太郎の部屋は、学生時代のままだった。しかし、もともと少し広めだった京太郎の部屋には、新しい家具が増えていた。
「座れよ」
「ああ、ありがとう」
新しい革張りのソファに座ると、京太郎は冷えたビールを持ってきながら、晴人のスマホを眺めて言った。
「おまえ、まだこれつけてるのか?」
「いや、今日久々に見つけたんだ。最近また夢見が悪いからさ。さっき出かける時につけたんだよ」
晴人のスマホにはバクのキーホルダーがついている。莉子が、まだ付き合っている時にプレゼントしてくれたものだった。
当時の晴人は、よく悪夢を見て、眠るのが怖いと思う日が多くあった。そのことを話したら、莉子がこのバクのキーホルダーをプレゼントしてくれたのだ。
獏は悪夢を食べる、中国の伝説の生物らしい。動物のバクは、その獏の姿に似ている事から、その名がつけられた。莉子は、このバクのかわいいキーホルダーを、獏と勘違いして晴人に贈っていた。しかし、病は気からとは、よく言ったもので、確かにこのキーホルダーをつけてから、悪夢を見る機会が減っっていった気がしていた。
「まあ、元カノのプレゼントを全部捨てることもないしな」
京太郎は言った。二人は久しぶりに酒を酌み交わしながら、たくさん話をし、晴人は京太郎に、会社の話も仕事の悩みもたくさん打ち明けた。打ち明けられるだけで、気持ちが軽くなっていくような気がして、こんなに笑ったのはなんて久しぶりだろう、と感じていた。
「なんで、人間って眠ったり食べたりすることが必要なんだろう。もっと簡単にエネルギー補給できるように進化しねーかな。こんなご時世なんだからさ」
いわゆるこれこそが晴人の本音だ。
「ショートスリーパーって知ってるか? 生まれつき、眠る時間が二、三時間って短時間でも、大丈夫なんだって」
「あー、それめっちゃうらやましいわ。俺なんてさ、睡眠不足なのかなんなのか知らねーけど、仕事中に集中力が続かないこともよくあるんだ。それでミスしちゃったりさ、それでまた余計怒られる」
「でも、それは、本当にお前のせいじゃないけどな、会社がおかしいよ」
「でもさ、今やめたって、これから再就職見つかるか?」
「そこが問題だよな……」
二人は答えが出ていないようだ。
「学生時代は楽しかったよな……まあ、卒業してからそんなに経ってねーけど、実際」京太郎はため息をつきながら言った。
「あん時の那須旅行、思い出しただけでも笑えてくるよ」
晴人は、大学三年の春休み、三人で行った那須旅行を思い出した。あの時、三人とも就活で忙しくなる前に、旅行にでも行こうと、大学の研究施設や宿泊施設のある、那須高原に向かうことにした。みんなお金も免許も持っていなかったので、鈍行列車とバスに長時間揺られながらの旅だった。おまけに、着いても何もない山奥。しかし、牧場や川が近く、緑に囲まれた素晴らしい場所で、バーベキューをしたり、川遊びをしたりと、子供のように楽しんだ。たった二泊の旅行だったが、これから就活を頑張ろうという気持ちを、大きくかきたてた思い出だ。
「また、あーやって三人で旅でもしてーな……」
晴人は、もう二度と叶わない夢のようにつぶやいた。
そんな晴人を横目に見ながら、京太郎は職場の週刊誌部門で働く同期から、不思議な話を聞いたことを思い出した。
「晴人、あのさ、お前が精神的におかしくなってるとは思わねーよ、でも、もし本当にきつくなったら、医者に助けてもらうのも手じゃないかな。俺もできるだけ、助けになりたいけどさ、プロの手を借りるってのもアリかもよ」
「なんだこれ、精神科?」
京太郎は一人の精神科の医者の名刺を晴人に手渡した。
「うちの会社の週刊誌のやつが言ってたんだよ、ずっと取材したいけど、断固拒否なんだって。でも、悩みを抱えたやつとかが患者として行くと、すごい即効性らしいんだよ。なんか人が変わったように、仕事に邁進できたり、明るくなったり」
「え、でも、精神科ってカウンセラーみたいなもんだろ? うつ病のやつがいくんじゃないの?」
「最近は違うんだってよ。別に深刻なうつ病とかパニック障害みたいな病気じゃなくても、カウンセラーって使うと結構楽になるらしいよ、欧米ではわりと普通らしい」
「えー、でもなんか気がひけるな……」
「俺もよく知らないんだけどさ、とにかく即効性がすごいんで、今業界でちょっと話題らしい。でもその治療内容とかは、完全に秘密なんだって。精神科で即効性ってどういうことって感じだけどな」
「変な薬でも使ってんじゃないだろうな」
「知らねーけど、行ってみて嫌だったら帰ってくればいいしさ、詐欺とかそういうのではないらしいぜ」
「へー……まあ、ありがとう」
正直、全く興味がもてなかった晴人だったが、京太郎が自分のことを思ってくれているのが分かって、嬉しくなった。もらった名刺を財布の中に挟んでおこうと鞄に手をかけたところで、壁にかかったアンティーク調の時計に目を移すと、すでに日をまたいでしまっている。晴人は名刺をそのまま鞄の中に落として、あわてて京太郎の家を後にした。
アパートの階段を降りて、玄関口についたところで、上の方から「晴人!」と声がした。京太郎がベランダから顔をだして、ニカッと歯をむきだしにしながら笑っている。
「また飲もうぜ! せっかく近くに住んでるんだしさ!」
夜も更けた中で、ささやき声ながら、その声には力がこもっていた。晴人は軽く「おうよ」と言いながら拳を京太郎に向かってつきあげた。
ほろ酔い気分で帰る道は、輝いて見えた。こんな楽しい気分になったのは、久しぶりだ。せっかく親友が近くに住んでいるのに、今までなんてもったいない事をしていたのだろう。しかし、そんなことを思いつかないほどに、自分は追い詰められていた事に気づいた。これからは、時間があったら京太郎に電話でもしてみよう。晴人は、夜遅いのにもかかわらず、ウキウキした気持ちで家路についた。
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