あなた 第11話 猫田ミサトという女
那々子と蓮は、久子の話を聞くと、背筋が凍るような思いだった。
なんという事だ。十歳から暴力団に属し、詐欺師として出世していった女。那々子の耳にも、蓮の耳にも、その話は刺激が強すぎた。ミサトは、どんなことを考え、何を見て生きてきたのだろう。きっと生前から、彼女の事を理解できる人は、いなかったのかもしれない。そう思うと那々子は胸が苦しくなった。
「ミサト……生きていて……本当に良かった……本当にごめんなさい、許して、私を許して……」
久子は涙を流しながら言った。介護士が、「横道さん、もう部屋に戻りましょうか」と言いながら、久子の車椅子を押した。那々子は何も答える事が出来なかった。
「ミサトさんのこと、幸せにします。横道先生、心配しないでください」
蓮は、久子の背中に大きな声で言った。
蓮と那々子は、介護施設を後にすると、車へ乗り込んだ。二人は会話を交わす事はなく、窓を開けて外を眺めていた那々子が先に、口を開いた。
「ここが猫田ミサトが育った場所なんだね、なんにもないね」
本当に東京都の中にあるとは思えないほど、周りは田畑にかこまれていて、隔離された村のような場所だった。しかし、電車に乗ればものの数十分で、あんな、人が人とも思えないように揉みくずされる人混みの中に入ってしまうなんて、なんだか不思議な気持ちだ。まさに猫田ミサトが育った場所にふさわしいと那々子は思った。
「ねえ、蓮、私少し歩きたい」
「何言ってるんだよ! あいつらに見つかったらどうするんだよ、車で伊豆まで送っていく」
那々子は一度運転している蓮をじっと見つめたが、すぐに窓の外に視線を戻した。
「大丈夫よ。ここは何もないし、誰もいない。少し猫田ミサトが眺めてきた景色を見ていたいの」
「じゃあ、僕も行くよ」
「ううん、一人にして。蓮、本当に協力してくれてありがとう、心から感謝してるわ」
蓮は、今更ながら、自分の車の隣に若く知らない少女が座っているような、不思議な感覚に襲われた。隣にいる少女が那々子だとは全く感じられなくなっていた。
「……わかった、じゃあ後でまた迎えに来るから、何かあったら、すぐに電話して」
「うん、ありがとう」
那々子は車を降り、ベレー帽を外した。少し冷たい風が頬を撫でた。
一条那々子は、俯き加減で河原をゆっくり歩いていた。
那々子は猫田ミサト、という少女の体をもらったのだ。
那々子には、彼女の人生がドラマのように思えた。横道久子の話は、今までの自分の生活からは想像のできないものだったからだ。これから自分はどうやって生きて行くのだろうか。那々子は、今までの人生よりも、これからの人生の方がずっと長いであろうことを、覚悟しなければならなかった。世間の目から逃れながら永遠に生きるなんて、絶対に嫌だった。そんなことをすれば、自分が自分でなくなってしまうことの方が恐怖だ。
猫田ミサトは、この世を去った。今は那々子という人間となり、この魂の入れ物として生きている。ミサトのおかげで那々子は今ここにいる。どんな人間だって、感謝しなければならないと那々子は強く思った。
しかし、那々子には、自分の姿が猫田ミサトであることよりも、周りから見た猫田ミサトが、自分であることは、どれほどまでに不思議なことなのだろう、と感じていた。想像するに、ミサトの性格は、那々子とは正反対なものだ。きっと顔だって、違う筋肉を動かしているに違い無い。しかし、こんな事でもなければ、自分は、東京の中にこんな田舎がある事も知らなかったし、ミサトのような生活を強いられる子供達がいることですら、想像できなかったかもしれない。そして、那々子の命は、二十七年で終わっていたのだ。背中に太陽の光が照りつけて熱くなった。振り返ると、オレンジ色の夕日がこちらを眺めている。那々子は目頭が熱くなった。
目の前に止まっていたドリンクカーからキャラメルマキアートを買い、河の土手に腰をおろした。夕日の光が川に反射して、キラキラと輝いている。那々子は大きくため息をつきながら、キャラメルマキアートに口をつけた。これもミサトの好みなのだろう。那々子はコーヒーはブラックしか基本飲まないので、初めて飲んで、暖かい甘い味にほっとすることができた。
この手術の事実を公開することはできない。それは五名との約束であり、契約だ。
もしミサトのことを知っている人に偶然出会ってしまったら……そんなこれからの事を考えようとして、すぐにやめた。どんな結果であれ、体の正体が分かってよかった。今はミサトの人生も受け入れて、これからは那々子として世間に隠れることなく生きて行こう。
もうすぐ日暮れの土手には誰もいなかった。周りは静かに流れる川と、爽やかに吹き付ける風だけだ。駅まで、まだ遠い。日が完全に暮れる前に戻って、蓮に電話しなくては。半分ほどになって、少し冷めたキャラメルマキアートを飲み干そうとした所で、那々子は刺すような視線が向けられていることに気づいた——
二人の黒いスーツを着た男たちが、遠くから那々子を見ている。あの時の男たちだ。しかし今日のその視線は、間違いなく殺気を放っている、那々子は突然背筋につららがたったような気がした。
男たちは、那々子めがけて走ってきた。
「逃げなきゃ……!」
那々子は全速力で走り出した。絶対に捕まってはいけない。絶対に殺される! そんな予感が那々子の頭を駆け巡った。キャラメルマキアートのカップも、その場に投げ捨て、那々子は走り続けた。とにかく人のいるような所へ行こう、しかし、周りにはなかなか人がたくさんいるような繁華街は見えなかった。日も落ちてきてしまった。より人の気配はなくなっていく。恐怖だけが那々子の心を支配し、冷静ではいられなくなり、行く先もわからず走り続けるしかなくなってしまった。
あの男たちは、きっとミサトが所属していた暴力団の一員なのだ、急に行方不明になった下働きを捕まえにきた——あいつらは、本気だ、必ず私を捕まえるつもりだ、伊豆で見張ってたのも、きっとあいつらだ、なんてしつこい奴らだろう——
那々子は頭をフル回転させながら全速力で走った。履いていたヒールの靴も脱ぎ捨てて走った。
那々子は、歩道橋の下まで走っていき、息を整えた。男たちの姿は見えない。いつの間にか、先ほどの河原まで無意識に戻ってきてしまったようだ。なぜ自分がこんな目に。どうやって説明すれば良いのだろうか……自分は猫田ミサトではない、と語った所で信じてもらえるはずがない。警察に行くべきか、いや、しかし、それも危険だ。自分がいったい誰なのか、説明しなければならない。完全に油断してしまった。那々子はようやく、この手術を受けた事を激しく後悔した。こんなことになるならば、あのまま安らかに死んだ方が良かったのではないか。
「どうしよう……どうしよう——!」
追いつかれて、見つかったら殺されるのだろうか——携帯がバックの中に見あたらない。どこかに落としてしまったようだ。
「とにかく、逃げ切らなきゃ! 人が来る! あの人に助けてもらおう!」
全く人気のない土手だったが、前から五十代であろう男性が歩いてきた。那々子は神は見捨てなかったと思った。
「すみません! 助けてください! 追われているんです!」
那々子はその男性に向かって最後の力を振り絞るかのように走った。やっとの思いで男性の腕までたどり着いた。
「助けてください! 知らない人に追われていて!」
グサッ
那々子は何が起こっているのか、わからなかった。数秒すると、腹部に激しい痛みを感じていることが分かった。那々子が目を下に降ろすと、長く太い刃物がしっかりと、腹部に刺さっていて、服には真っ赤な血が滲み出ている。
「え……どうして……」
那々子は、蚊のなくような声で男に聞いた。
「なぜ生きている」
男は、ものすごい剣幕で那々子を見つめている。
「あの時殺したはずだぁあぁあぁぁぁ‼︎」
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