あなた 第6話 高浜蓮
那々子は、かつて自らが毎日通ったビルの前に立っていた。ある一人の男を待っていたのだ。
夜八時、その男は那々子に視線を向けることもなく、ビルの中から出てきて駅に向かって足をすすめている。
那々子は小走りでその男をつけていき、その男に追いついた所で腕をつかんだ。
「あの、どうしたのかな?」男が答える。
「……蓮」
「え?」
蓮は目を丸く見開いた。
「ごめんね、僕たちどこかで会ったことがあったかな?」
「……」
「何か僕に用かな?」
那々子はなんて言っていいのかわからなかった。蓮に手術のことを話すことはできない。しかし、蓮には自分が那々子だということを信じてもらわなければならなかった。
「蓮……私なの」
「……?」
「私、那々子なの」
蓮は、どういうことなのかわからなかったが、その少女がしっかりとつかんでいる自分の腕を振り払うことはできなかった。
「何を言っているのかな?」
「蓮、あの時は、本当にごめんなさい、私本当に那々子なの、信じてほしい」
「那々子は、僕の婚約者だった人だよ、那々子のことを知っているの?」
蓮は少し怒ったような声で答えた。この少女が那々子だということは微塵も信じていないようだ。
「あなたがプロポーズしてくれた時の言葉、覚えてる。私たちがどうやって出会ったのかも。毎日仕事帰りにお見舞いにきてくれたことも」
那々子は蓮の瞳をまっすぐと見つめた。しかし、蓮は那々子の瞳を見つめ返しはしなかった。完全に頭のおかしい少女に捕まってしまったかのように、困った顔をしている。このままでは、警察にでも連れて行かれそうな雰囲気だ。那々子は心が折れそうになったが、自分はこんなことで折れるような玉では無いと、一瞬にして気持ちを切り替え、蓮を説得することに精を尽くした。
「これ! あなたが私にくれた指輪よ。こんなに小さなダイヤモンド! でも私は嬉しかったの! あの時が、人生で一番幸せな瞬間だった!」
珍しく大きな声で那々子は蓮に本当の気持ちをぶつけた。那々子は、いつも上品でおとなしく、冷静な女性でいるよう努めていた。しかし、今何よりも大事なことは、蓮に自分のことを理解してもらうことだ。しかし、それこそが那々子らしく無い言動のようにも見えてしまった。
蓮は、何も言わずに今度はまっすぐと那々子の瞳を見つめていた。
「ごめんなさい。大きな声だして。あなたが信じられないの、わかる。私もいまだに信じられない。でも、私、あれから……」
それから那々子は、蓮との思い出の数々を話し出した。二人しか知りえなかったことも。
「どうして……君がこれを持っているんだ。君は、一体誰なんだ」
蓮は、那々子の差し出した指輪をまじまじと見て、もう一度那々子の方を見た。那々子はつい本当のことを言ってしまいそうになったが、直前で口をつぐんだ。しかし、今後協力してもらうことを考えると、彼にだけは本当のことを話すしかない——
「蓮、ゆっくり話しがしたい」
那々子は蓮を、プロポーズされたレストランの個室へと案内し、全てを話し始めた。
蓮は食事にもワインにも手がつかないようで、常に目を丸くして、じっと那々子の顔を見ていた。
「父が……あの時突然ごめんなさい。私も、どうしようもなかったの」
「君の話しを、完全に信用できるのかどうか、わからない、あまりにも信じられない話しすぎて」
蓮は口をつけていなかったワインを一気に飲み干して、続けて話した。
「でも、君がそういうなら、信じるよ。事実かどうかは、関係ない」
蓮は、那々子の言っていることが本当のことかどうか、全く確信は持てないでいた。しかし、自分が愛した女性が、目の前で生きていることを信じてみたい気持ちもあった。何よりも、彼女は二人しか知らないことを全て知っていた。
那々子は蓮のことを心底見直した。ここまでも理解力があり、懐の深い男だったのか。あのまま自分が病にもおかされず、この男と結婚していたならば、幸せな家庭を築けていたことは間違いなかったかもしれない。そして那々子は蓮に事情を話し続けた。
「私の体になった、この子の正体が知りたいの」
蓮は、そんなこともお見通しだと言わんばかりの目をしていた。
「でも、君一人でそんな調査をするなんて、危険すぎる、協力できることがあれば、協力するよ」
那々子は蓮の手を握って、言葉にならない声で小さく「ありがとう」とつぶやいた。
那々子は、蓮に今まであったことを話すことができて、とても安心した気持ちになった。那々子が信用できる人物といえば、蓮しかいなかった。協力者を手に入れた那々子は、東京に一人事情を知る人物がいる。そう思うだけで、今までにないような開放感につつまれていた。それに、免許を持っていない那々子は、蓮が協力してくれるだけで車で移動できる。姿を見られる確率も低い。より、体探しが早く進むような気がした。
それから那々子は東京にいる蓮と頻繁に連絡を取った。蓮は那々子の今の姿の写真だけを頼りに調査することにしたが、この広い東京では大変な作業だった。
探偵事務所や警察に頼むわけにはいかない。
蓮は仕事帰りや休日に、なるべく繁華街の飲食店やインターネットカフェで独自に訊き込み調査をしていたが、全く手がかりはつかめそうになかった。考えてみれば、名前もわからない、顔以外に何も情報のない人をこの広い東京で探すなんて、酷な話だ。これは諦めるしかないのかもしれない。蓮はなかば力が抜けてしまっていた。
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