あなた 第5話 新宿
それからも、那々子は母の反対を押し切って、東京に幾度となく出かけるようになった。
芸能界へのスカウトの名刺も、もうすでに何枚も貰った。さすがにメディアに出ることは憚られたので断っていたが、那々子は悪い気がしなかった。次第に那々子は、買い物だけでは飽き足らず、今までの自分が行った事の無い所にまで足を伸ばしてみたいと思うようになった。
こんなところに入るのは初めてだ。新宿にあるクラブ。確実に今まで付き合ったことのないような人たちが、そこには溢れていた。体がちがうだけで自分はなんだってできる。見た目というのは、人を変える力だってあるのだ。元来自分に自信がある方だと思っていた那々子だが、さらに自分の知らない自分に出会えることができて、人生というのはこんなにも楽しいものなのか、と那々子は考えていた。お酒の力も相まって、気持ちが大きくなる。
「お嬢ちゃん、綺麗だね。名前は?」
「……」
先ほどから、男に声をかけらることは少なくなかったが、彼らは少し毛色が違うようだ。あきらかに目が違う。先ほどまで適当にあしらっていた、気が大きくなった自分とは一変して、那々子は男たちを前に身構えた。
「なんなの、人形なの、この子」
「なんか喋れよ! クソガキ!」
突然男たちは那々子の腕を引っ張った。那々子はその手を振り解くと、怖くなって全速力で出入り口に向かった。そこには強面のボーイが立っていて、那々子はそのボーイに向かって息を切らせながら話しかけた。
「少し怖い人達が中にいて、すみません! 追いかけてきても、私はあっちに行ったって言ってください!」
那々子は駅とは反対方向を指差しながら、駅に向かって走った。入り口のボーイのおかげなのか、幸い男達が追いかけてくることはなかった。バカな事をした、慣れないことはするものじゃない。アラサー女が調子に乗った罰だ、と那々子は思った。その日は駅近くのホテルに泊り、次の日の朝一で伊豆へ帰ることにした。
あの日から、那々子は不思議な視線を感じている。家にいる時も東京に行く時も、誰かに見られているような気がしていたし、その視線は何日も続いている。
家のまわりを散歩している時も、誰かにつけられているような人影も見ていた。
急に那々子はこの体の正体が無性に気になった。あのクラブに入ってから、間違いなく誰かに監視されている。
身元不明になるような体だ、きっとああいう場所にも頻繁に出入りしていたに違いない。あそこで、誰かにこの姿を見られたのかもしれない。その追手は伊豆にまでやってきているのだろうか——帰りをつけられたのだろうか——もう東京にはいかない方がいいのだろうか——しかし、東京にいかなければ、この体の正体は突き止められない。それとも、全てをゼロにして、どこか誰も知らない遠い街で暮らした方がよいのだろうか。いろいろな思いが那々子の頭を駆け巡っていたが、うじうじと考えているのは自分らしくない。それに、このままでは、どこに行っても永遠にこの視線に怯える日を送ることになるかもしれない。やはりどうしても正体を突き止めたい。那々子はもう一度、単身東京へ行くことにした。
マスクにサングラス、ベレー帽を深くかぶって新幹線に乗り、東京駅に着くと、駅の中の自動写真機で証明写真を撮り、そのまま近くの美容院で髪の毛をさらに短く切った。そしてもう一度マスク、サングラス、ベレー帽を目深にかぶり、新宿駅まで山手線に乗り込む。きっとあのクラブのあたりが、この体が生活していた区域なのかもしれない。那々子は、なんだか探偵になったような気分になり、これから危険なことをしに行くかもしれないというのに、少し高揚していた。それにしても、人探しをするというのに自分を知っている人を探すなんて妙な話しだ。そう思いながら、那々子はマスクの下でフッと笑った。
まずは、あのクラブの近くの飲食店(特に昼間は営業していないところ)に、自分の写真を持って、訊き込み調査をして回ることにした。しかし、やはり現実は甘くなく、この体の存在を知っている者は現れなかった。しかし、もし現れたところで、自分は次にどういった行動を取るのか、ということは考えの外に追いやってしまっている。
少し日も落ちて辺りが暗くなってきた。この店を最後にしよう。ドラマだと、最後に訪れた店でだいたい何か情報がつかめるものだ。那々子は意気揚々と店に入って訊き込みをしたものの、残念ながら有力な情報を掴むことはできなかった。
店を出ると、那々子は刺すような視線が向けられている事に気付いた。ふっとそちらを振り返ると、二人の黒いスーツを着た男たちが物陰から那々子を見ていたが、すぐさまその場から去った。その視線は、那々子の姿をどうやら知っているようだ。この二人が伊豆にまで追いかけてきたのだろうか。しかし、あんなに探偵気分で調べていたものの、那々子にはその男たちを追いかけて訊き込みをする勇気はもちろんなかった。そしてこれ以上この姿で歩き、訊き込みをして回ることすら怖くなってきてしまった。
今更思ったことだが、やはり誰か協力者が必要だ。那々子の頭の中には、一人の人間の顔が浮かび上がってきたが、そこはさすがに触れてはいけないような気がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます