あなた 第4話 新しい生活?

 那々子は五名のもとで、リハビリを重ね、ついに退院の日を迎えた。五名から、骨壷に入った那々子の体を受け取ると、五名は、両親の手引きで自宅療養と称して病院から退院させ、脳移植手術をしたのち火葬してしまった、と語った。自分がこんなに小さく包まれた自分の体を手にしているなんて、なんとも気持ち悪いというか、不思議な感覚だったが、あえてそこはもう気にしないことにした。自分の自我は今ここにある。それでいいじゃないか。

「一条那々子さん、あなたの人生これからですよ。楽しんでください」

 五名は那々子と両親に告げると、何の未練も無いような面持ちで背を向け、その場を後にした。両親は、去り行く五名の背に深く頭を下げていた。


 東京の自分の家に帰る事はできなかった。父は、会社を捨てることはできないので、那々子は母と共に、父が通えるように、とりあえず伊豆の別荘で二人で暮らすことになった。この別荘には、高校生の時以来来ていない。ここで新しい生活が始まる。いうなれば若くして第二の人生だ。

「お父さん、お母さん、私、生きてるんだね」

「……そうよ、あなたはここで、私と暮らすのよ」

 母は、那々子の肩に手を置くと、共に別荘の外観を眺めた。

 那々子は家の中に入ると、とりあえずお風呂場へ直行した。

 浴室の大きな鏡に、自分の裸の姿を映し出してまじまじと見つめる。ピチピチの白い肌。長く伸びた手足。どう見ても十代の肌だ。身長は165センチくらいあるのだろうか。すでにアラサーに差し掛かっていた那々子には、久しく感じていない感覚だった。

 那々子はもともとガーリーなタイプだった。身長は154センチほど。栗色の長い髪をいつも綺麗に巻いていて、前髪にもこだわっていた。スカートをはく事がほとんどで、服も、白、ピンク、ベージュのようなアースカラーを選ぶことが多かった。

 しかし、この体は全く違う。どちらかといえばボーイッシュで、スタイル抜群といったところだ。切れ長で猫のような目も、今流行りのK-POPアイドルのようだな、と那々子は思った。

 

 お風呂から上がり、広いダイニングに向かうと、母がたくさんの料理をテーブルに並べていた。

 スーパーフードであろうものがふんだんに使われたサラダボウルに、ローストビーフ、キッシュにシャンパン。豪華ながら健康に良さそうな料理たちが、テーブルの上を彩っている。長い入院生活で久しく口にしていなかったが、那々子は健康に気を使いつつも洒落た洋食に目がなかった。女性として、気を使っている自負があり、母もそのことはしっかりと、理解していたようだ。那々子はダイニングチェアに座ると、心を躍らせた。

「今日は退院祝いだし、ゆっくり食べなさい」 

 母は嬉しそうに次々と料理をテーブルに並べていく。

「お母さんありがとう! いただきます!」 

 那々子も好きなものから自分の皿に盛っていった。しかし、三口くらい食べたところで手が止まってしまった。

「どうしたの? まだそんなに食べられないの?」

「うーん、なんかそうみたい、こんなに用意してくれたのにごめんね」

「いいのよ、無理しないで。また後で、お腹が空いたら食べればいいし。今は少し寝たら?」

 部屋に戻った那々子は、ベッドに寝転びながら考えた。

 那々子はこれまで、食べるものには気をつけていた。オーガニック食品やスーパーフードにも凝っていて、コンビニ食やファストフードには一切口をつけることはなかったはずだ。

 しかし、今頭の中に思い浮かぶものは、ジャンクなハンバーガーや、コンビニで買えそうなお菓子。すでにそんな口になっている。

橋本はしもとさん。ごめん、コンビニでさ、カップラーメンとポテトチップス、あとハンバーガーとシェイクも買ってきてくれる? あ、お母さんには内緒で」

 那々子は別荘に勤めている家政婦の橋本に頼み込むと、数十分後には、部屋中に信じられないほどのジャンクフードの数々が並んだ。すでに、口の中は唾液が染み出すように出てきて、那々子はむさぼるように、それらを全てたいらげてしまった。

 知らぬ間に、先程までの色とりどりの食材たちは、汚れたプラスチックの容器や、ぐちゃぐちゃに丸められた包み紙へと形を変え、那々子は初めての満足感に浸っていた。絨毯の上には、こぼれたポテトチップスのかけらが落ちている。


 翌朝、テーブルにはまた、母が用意したコーヒーとフレッシュジュース、綺麗なひまわり色のオムレツとパンケーキにフルーツ、ホテルの高級モーニングのようなメニューが並んだ。

「ねえ、めかぶないの?」

「めかぶ⁉︎ あなた嫌いじゃない! ヌルヌルしていて気持ち悪いって!」

「うん……そうだけど、でも朝は、めかぶが食べたいの」

 那々子の発言を耳にした橋本が、そそくさとスーパーに足を走らせ、またすぐに那々子の目の前にはめかぶが差し出された。那々子はずるずるとめかぶだけをお箸ですすった後、ブラックコーヒーにミルクとはちみつを入れて一気に飲み干した。

「ちょっと、そんな、行儀の悪い……え、もういいの?」

「うん、いらない。朝はめかぶとコーヒーでいいの」

「何その組み合わせ、あなたちょっと変よ」

 母は不思議な生物でも見るような目で那々子を見つめている。

 那々子も内心、その意見には同意だった。那々子は小さい時に、友達の家で一度めかぶを口にしてから、今まで二度と口にすることはなかった。あのヌルヌルとした食感が、どうにも受け付けない。味も、あるんだか無いんだかわからない。ほとんど好き嫌いはしなかったが、めかぶだけはどうしても食べられなかった。なぜめかぶという単語が頭に浮かんだのか、全く理解ができない。これはこの体の習慣であり、体の記憶なのだろうか。

 

 それからも、那々子はジャンクフードを食べあさり、朝はめかぶと、はちみついっぱいのコーヒーで過ごしていたが、全く太る様子もない。

 あんなに食べ物に気をつけていたのに癌にかかった那々子と、こんなに体に悪いものばかり食べていても、太る様子もなければ全く健康なこの体に、那々子は辟易としていた。今までの努力はいったいなんだったのだろうか。

 生活習慣も変わっていった。那々子は朝はなるべく早く起き、休みの日はジムで汗を流すことが日課だった。しかし、この体で生まれ変わってから、朝はまったく起きられなくなり、そのかわり夜はずっと遅くて、二時くらいになるまでゲームをしたり、漫画を読むことも多くなり、手のひらにはゲームたこができてしまう始末だ。夜のお供は、必ずポテトチップスを隣に置いていないと気が済まない。


 そんな日々を過ごしていく中で、那々子は、少しづつ病気になる前の生活を思い出していた。

 思い返せば、毎日フルタイムで研究所に住み着くように働き、夜遅く帰ってくることも少なくなかった。しかし、癌が発覚してからは、もちろん全く働くことはないし、死について考えることも多かったが、今はそれもない。健康な体なのに、毎日ダラダラ過ごして、田舎でやることもない。

 那々子は少しづつ、この伊豆での生活がつまらなくなっていた。おまけに、こんなに美しい体を、この屋敷とこんな田舎に幽閉させておくのもなんだかもったいない気がして、東京に思いを馳せる日も少なくない。

 那々子は一大決心をしたかのように、伊豆の家を抜け出し、一人東京へ行くことを決めた。

 



 癌が発覚して以来、繁華街なんかにはほとんど来ていなかった。このすらっとした体にヒールを履いたらもっと景色が変わった。自然と背筋も伸びる思いだ。背が十センチ伸びるだけで、空に少し近づいた気がした。こんな姿で渋谷や原宿を歩いてしまったら、スカウトされてしまうのではないだろうか。那々子は久しぶりにウキウキとした気持ちになった。

 南青山に着いてからは、いままで着たことのないような服もたくさん買ったし、食べたことの無いものも食べた。一人でカラオケボックスにも入ってみた。

 今までやってきたことと全く違う仕事についてみよう。大学にもう一度入る事はできないだろうか。どっちにしろ自分でいくらでも勉強はできるだろう。自分にはそれを成し遂げるだけの能力を持っていることも知っていた。那々子は、自分には新たな無限の可能性が広がっているような気持ちになった。

 余命宣告をされた時、自分への未来が、大きく厚い扉によって閉ざされた、その時の感情を取り戻すかのように、大きな翼を手にいれたような気がした。コンクリートジャングルと化した東京の空も、この翼があれば青く広いのだ。

 大きなショップ袋をたくさん手にした那々子は、伊豆へ向かう最終電車に乗り込んだ。


「どこへ行っていたの⁉︎」母は大きな声をあげた。

「暇だし、東京に行ってた。ねーお母さん、私なんの仕事しようかな、これから何かやりたいことを他に見つけて、勉強もしたいと思っているの!」

 何も告げずに一人抜け出したと思ったら、あっけらかんとしら娘の姿を見て、母は余計に頭に血が上った。

「何を言ってるの! そんな体で東京に行って! 誰かに見られたらどうするの⁉︎」

「誰かに見られたらって。誰かに見られて困ることなんてあるの?」

「……」母は少し口を閉ざしたあとに、つぶやいた。

「だって、誰だかわからないのよ……」

「そんなこと言ったって! じゃあお母さんは、私をずっとこの家に閉じ込めておきたいの⁉︎ 何のために私は二度目の人生を手にいれたのよ! まだ若い体なのに! こんなんじゃ生きている意味ないよ‼︎」

 那々子は大声をあげると、走って階段を登り自分の部屋に閉じこもった。確かに言われてみれば、この体が生前何をしていたのか気にならないわけではない。しかし、東京にどれだけの人が暮らして居ると思っているのだ。そんな簡単に正体がわかるとは思えない。身元不明ということは、彼女の事を知っている人も少ないのだろう。

 那々子は、インターネットで身元不明の遺体の情報を少し検索してみたが、もちろん那々子の体であろう情報は一つも出てこなかった。この体は遺体じゃないし、警察に受け渡す前に五名が盗んで、そのまま行方をくらましたのかもしれない。あの男は今何をしているのか、もう探る術もなかった。能見総合病院に五名の姿はすでになかった。

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