あなた 第3話 目覚め
「一条那々子さんですか?」
那々子が目覚めると、そこはいつもと違う光景だった。この蛇のような男が目の前にいるせいで、いつもの天井のシミが見えない。今日は天気も良く無いようだ。日差しが差し込んでこない。今は何時なのだろう。
「あ……なた……は……?」那々子は訊ねた。声がうまく出せない。
「脳外科医の五名竜二です。今日からあなたの担当医です、三日前から……といった方が正しいかな」
何を言っているのだろう、この男には会ったことが無い。男がどいた後に見えた天井に、いつものシミはなかった。部屋に窓もない。
少し時間がたって、部屋の様子がよく見えるようになった。何だか青暗い蛍光灯に照らされた部屋に、一つのベッドがぽつんとあって、そこに那々子は寝ていた。
「あなたのお名前は、何ですか?」五名は訊ねた。
「一条那々子です」
「年齢は?」
「二十七です」
「ご職業は?」
「大華堂の化粧品開発研究員で……した」
「あなたは、今どんな状況ですか?」
「三ヶ月前に、末期ガンの宣告を受けて、今は緩和ケアで……治療中……です……、あの、これ何の質問ですか?」
「那々子! 本当に、あなた那々子なのね⁉︎」
「お母さん……どうしたの?」
「あなた三日間も目覚めなかったのよ、本当に……良かった……」
五名が何を自分に訊ねてくるのか、那々子は不思議に思った。母はいつも通り泣いているが、どうやら尋常では無い様子だ。それよりも、三日間も眠り続けていたなんて、そろそろ別れの日が近いのか。それにしては、いつもより体が軽く感じられる。那々子はパジャマから飛び出た自分の腕に目を向けると、細くて白いツヤのある肌が見えた。
「五名先生、本当に、本当に成功したんですね……」
母は泣きながら五名と話している。
「どうやら記憶の接続に問題はなさそうですね、後ほどさらに詳しいテストをやりましょう」
父もなんだか不思議そうな目をして、那々子を見つめていた。
「お父さん、お母さん、どうしたの?」
「那々子さん、歩いてみてもらえますか?」五名は言った。
那々子はゆっくりとベッドを降り、足をついた。なんだか感覚が変だ、自分の体じゃないみたい。足を進めることは、かろうじてできたが、どうも歩きづらい。五名はよろよろと歩く那々子に全身鏡を持ってきた。那々子が鏡に自分の姿を映し出すと、そこには見覚えのない少女が立っていた。
「え……なに……これ……」
いつも冷静な那々子だったが、この時ばかりは頭の思考が停止した。
那々子は鏡から目を離し、自分の体に目を向ける。真っ白なツヤのある細い腕、いつもと見える景色も違う、身長も普段の那々子より十センチ以上は高そうだ。白い肌に切れ長の目、すべて自分のものとはかけ離れていた。
「え、なに、お父さん、お母さん、これ、どういうこと……? 蓮は?」
「蓮くんとは縁を切った」父はうつむきながら答えた。
「え‼︎ どういうこと⁉︎ なんでよ! だいたい、これ、どういうことなの、私、これ、何なの⁉︎」
那々子は激しく混乱した。
「ご気分はいかがですか?」
「……最悪です」
「本当に?」
確かに、いつものような気分の悪さや、だるさは全くなくなっている。体も軽いし、痛みもない。
「あなたには、ご両親の要望で、脳移植を受けていただきました。これから病気や死の恐怖に悩まされることなく、新たな人生を送ることができますよ」
「脳……移植……? って……なんですか?」
それから、那々子は五名の説明を聞いた。
全てが信じられない話しだった。私の体はどこにいってしまったのだろう。蓮とは、友達とは、もう二度と会えなくなるのだろうか、だいいち両親はなんでこんなことに同意したのだろう。全てが理解できなかったし、受け入れられなかった。両親はそんなことをしてまで私に生きていて欲しかったのだろうか、こんなことになるのなら、あのまま死んでしまった方が良かったのではないか。様々な考えが那々子の頭をかけめぐった。
「お父さん、お母さん……どうしてこんなこと……私もう那々子として生きていけないの?」
「そんな事無いわ。那々子の体は五名先生が引き取って退院させたわ。戸籍もそのままでいい。ただ、私たちはどこか遠くの町で生きていきましょう」母は話した。
「お父さん、お母さん、どうして。そんなに私に生きていて欲しかったの……?」
「……そうだ。お父さんもお母さんも、どんな姿になっても、どんな形でも、お前に生きていて欲しかった」
父は涙を流しながら答えた。那々子は父の泣いている姿を初めて見た。母はいつも泣いているが、父はどんなに辛くても、那々子の前で涙を流したことはなかった。それだけ、自分の病気の事で、二人は追い詰められていたのだろう。そう思うと那々子も涙が出てきた。
蓮との思い出が、那々子の頭の中でフラッシュバックのように浮かび上がってくる。こんな体になっても、蓮のことはすべて覚えていた。涙を流す両親の姿を見ながら、那々子は消しゴムを使うように、蓮との思い出を頭の中で消していく。しかし、那々子に家族の縁を切ることはできなかった。那々子はゆっくりと、何日間もかけてこの体を受け入れ、生きていく決意を固めた。
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