3話:元樹(夫)はいずこ


 <変態>の言葉に素早く反応した勇治は、瞬時に美園に口撃をしかける。


「美園! 今すぐその言葉を撤回しろ、神経に触る」

「変態」


 美園はわざと同じ言葉を繰り返す。


「貴様ぁ、いっぺん死ね!」


 そう叫んで美園に飛びかかろうとした勇治は、日頃の運動不足がたたって足が吊り、豪快に前のめりにぶっ倒れた。


「んがぁ!」

「きゃあ。ゆぅたん大丈夫」


 千秋が慌てて勇治に歩み寄る。

 運良くソファーの上に倒れ込んだ勇治は、痛めた腰を抑えながら必死に立ち上がった。


「だ、大丈夫だよ、ち~たん。俺はち~たんより先に死んだりしないから」

「ほんとにほんと?」

「ああ、約束するよ」


「もしもぉ~し、お2人さん?」


 美園のツッコミなど最早耳に入らない様子で、2人は手を握り合ったまま見つめ合っている。完全の2人の世界だ。


 夏美は冷めた目でその様子を見守っている。


 そこへようやく寝ぼけ眼をこすりながら、母・栄子が2階から降りてきた。

 細身の体にシルク地のバスローブを羽織った姿は、40代前半にしては随分若々しく見える。


「もう、うるさいわね。何時だと思ってんのよ」

「12時前だよ――昼の」


 部屋の隅で大人しくパソコンをいじっていた誠が答える。


「あら、もうそんな時間?」


 部屋を見渡した栄子は、不機嫌そうに言う。


「ところで、あれは?」

「お父さんなら、昨日から帰ってないよ。接待だってさ」


 美園の言葉を聞いて、栄子は鼻で笑う。


「ふん、接待ねぇ」


 日当たりのよい窓辺の揺りイスで、死んだように眠っていた祖父ケンジが、ふいに口を開いた。


「リンリンちゃんの接待じゃ」

「リンリンちゃんって?」


 栄子が怪訝そうに問い返す。


「リンリンちゃんは、ふかふかしてて、ええ子じゃそうじゃ」

「これ、爺さん。それは内緒じゃゆうて元樹に口止めされてたでしょうに」


 祖母・タキが慌ててケンジの手を叩く。


「そうじゃったかのぉ」


 以前であれば、ケンジのこういう態度はボケの初期症状だと不安視していた一家だが、ここのところ都合が悪くなるとボケはじめる兆候が見られるのに気付き、影ではタヌキオヤジと命名されている。


 栄子は眉間のシワを伸ばしながら、勇治に命令する。


「勇治、今すぐ奴に電話して」

「だめ、今ち~たんとお手て繋いでるから。ね、ち~たん」

「ね。ゆうたん」


 気味の悪い寸劇を見せられて、部屋の温度は一気に零下まで下がりつつあった。

 栄子は人差し指でさらに額のシワを伸ばしつつ、大きくため息をついた。


「勇治。起き立てに心臓に悪いコント見せるのやめてくれない?」

「コントじゃなくて、俺たちは……」

「勇治!!」


 栄子が声を荒げる。


「いい?今は大事な時期なの。あの木偶の棒でくのぼうがホステスと一泊デートだなんてことが発覚したら、それこそ死活問題よ。モデルファミリー失格になるわ」


 千秋と手を繋いでお花畑にいた勇治は「モデルファミリー失格」という悪夢のような言葉を聞いて、瞬時に覚醒した。

 名残惜しそうに繋いでいた手を放すと、急いでスマホに飛びついた。

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