第五章 ???・ルート
第35話 運命が始まった場所にて
※動物虐待描写があるのでご注意ください。
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一つのルートが終わったのが感覚で分かっていた。五回目の運命の始まる日とやらは、四回目と同じく、抜けるような青い空。
「……でも、その下に広がる景色が違うと、こうも違って見えるのね」
ここは温暖な気候と肥沃な土地に恵まれた地上の楽園、ファールン王国ではない。四季があると言えば聞こえはいいが、温度や湿度が激しく移ろい、天災のバリエーションも豊富な小さな島国。その片隅にある地方都市の一画、アプリで処理したかのように似たような建売住宅が並んだ中の一軒。前世のブリジットが住んでいた家だ。
「そう。みんなで死ぬ前、私は大体、床下にいることが多くて……」
人気のない、寂れた庭に場違いなドレス姿で立っているブリジットは、裾が汚れるのも構わずしゃがみ込んで床下を覗き込んだ。外が明るい分、光の射さない場所は暗いが、勝手知ったる闇の中に彼女は薄汚れた少女の姿を幻視する。
「そこで……ねこちゃんに会ったの」
生後それほど経っていないと思われる子猫は最初、灰色のほこりの塊のようだった。みう、みう、とかすかに鳴くそれが、温もりと庇護を求めてすり寄ってきた時、冷たく凍えていた魂に火を灯してくれた瞬間を忘れない。求めても得られない愛にすり切れかけていた生前のブリジットは、己が守る立場に立つことで、生きる気力を取り戻した。
ねこちゃんは私が守る。そう決断した彼女は、気まぐれに与えられる食事だけでは足りない、もっとほしいと母に要求することさえできるようになった。もちろん、こっそり猫に与えるためだ。
「でも、あの日お兄ちゃんに、ねこちゃんが見つかってしまって……」
──お前、最近妙に生意気になったと思ったら、なんだよその汚ぇ毛玉はよ。
ペットなんて飼える身分だと思ってるのか? と笑いながら近付いてきた兄に、前世のブリジットは必死に立ち向かった。だが長年の深酒が祟り、めっきり老い始めていた父よりも体が大きくなっていた兄に勝てるはずもなかった。
「私、いつかのお兄ちゃんみたいに、うまく庇えなくて……」
兄に摘まみ上げられ、庭に放り出された子猫の上に丸まって庇おうとしたが、腹を蹴られて果たせなかった。苦痛にうめきながらやめて、と叫ぶ妹の無様な姿を愉しみながら、兄は猫への暴行をエスカレートさせていった。
「ねこちゃん、蹴られて、壁に叩き付けられて、動かなくなって、ねこちゃん、ねこちゃん」
「ブリジット様!」
最悪の記憶の底に沈み込んでいた彼女の肩を、サイトスは正面から掴んだ。ブリジットはびくりと大きく震えたが、即座に手を放したサイトスを見上げる瞳はきちんと現在を映している。
「サイトス……」
「……はい。そうお呼びいただけると、ありがたいです」
だから、自分のほうが眼を逸らしてはだめだ。己にそう言い聞かせながら、サイトスは真実を語り始めた。
「……申し訳ありません。ずっと、あなたをだましていました。人間の男、執事のサイトスのふりをして、あなたに私の考える幸せを押し付けようとしていた」
「ふわふわ姫」を選んだ理由の一つが、ヒロインのナビゲーターとして有能な執事・サイトスが設定されていることだった。ブリジットが誰かと結ばれてなお、当たり前のように婚家に付いていくサイトス。──兄のように慕われている、という立ち位置に不安はあったものの、武芸にまで通じた彼という殻をまとうことができれば、ブリジットの役に立てると考えたのだ。
「自信がなかったのです。前世の私は……俺は、命の恩人であるあなたに恩を返すどころか、心の傷を作ってしまうだけだった。いくら執事ぶろうとも、元が無力な野良猫風情では、お前……ではない、あなたを不安にさせてしまうと思って……」
ブリジットと違い、彼は前世の記憶と人格の継続をイルファリアに希望した。その代償として、本来の己とは異なる存在と自身をすり合わせるために、大変な努力をしなければならなかった。
なにせ、人と猫である。最初はまともに立つことさえ難しかったが、幸いに時間だけはあった。自分もブリジットも死んでおり、魂だけが二人を哀れんだ女神の保護下にある状態なのだから。
おかげで根気強いイルファリアの助力により、完璧な執事として振る舞うことができるようになってから、正式に「ふわふわ姫は愛されまくる」を始めることができた。……ブリジットが記憶を取り戻してからは、動揺のあまり地が出ることも増えてしまったが。
「だが、俺は忘れていた。どんなに虐げられていても、あなたは芯の強い人だった。自分だって飢え死にしてしまいそうなのに、俺に食べ物をくれた。そんなあなたを、別の人格に無理矢理押し込めた挙げ句、あなたの嫌う男と結婚させようとするなど……俺は……俺は、本当に……」
あの時は、それが一番いいと思ったのだ。前世のサイトスのみじめな死によって、ブリジットは絶望のうちに一家心中を受け入れた。世界も家族も立場も何もかも取り替えてしまわなければ、彼女はまた同じように悲惨な死に向かうかもしれない。エゴに過ぎないと分かっていても、それだけは絶対に避けたかった。
「だが聞いてくれ、ブリジット。それでもこの世界は、前世と比べれば条件がいいのは間違いないんだ! 便宜上、俺が攻略対象ということになっているが、どうせヒロインに極甘の世界なんだ。修道院に戻らずとも、一生伯爵家でのんびり家族の愛に包まれて生きていく、これで問題ないはずだ! そのあたりは、女神イルファリアがきっとどうにかしてくださる!!」
正規ルートの五人とは結ばれず、自分が最後の攻略対象に成り代わるというアクシデントの末ではあるが、その過程で悪役令嬢も滅びた。大役を譲ってくれたスノーブルーには悪いが、やはり己が相手役としてブリジットを幸福にするなど、おこがましいとしか思えない。
ブリジットも確かに、一度はサイトスが攻略対象ではどうかと言ったが、あれは苦肉の策だろう。ブリジットにとっての自分は執事のサイトスか子猫なのだ。同族の男として、愛されたいと願うこと自体が間違っている。
そんな想いを隠して熱弁を振るうサイトスを、ブリジットは何やら恨めしげににらんでいる。
「なんで今まで、教えてくれなかったの」
「そ、それは……その……申し訳ありませんでした……」
直球で責められたサイトスはたちまち勢いを失い、うなだれるしかなかった。
「ねこちゃんだって、生きてるって、なんで教えてくれなかったの!!」
爆発するような勢いで叫んだブリジットが、ひしとサイトスにしがみついてきた。うらぶれた一軒家の庭で、ドレス姿の令嬢が執事に抱きつく珍妙な状況などどこ吹く風の勢いに、サイトスは思いきり動揺してしまう。
「や、死にはしたんだが……あ、ちが、い、生きて、生きてます!」
余計なことを口走った瞬間、ブリジットの腕が緩んだので急いで言い直した。途端、骨も砕けよとばかりに抱き締められて喉からつぶれた息が漏れた。護身術の成果は着実に出ているようだ。
途方に暮れながら、彼女を眺め下ろす。ハニーブロンドを乱した華奢な美少女の姿は、大抵の男なら眼を留める美しさを持っているが、サイトスは元が猫だからだろうか。人間の女性の美醜に関しては、毛艶の善し悪し以外はいまだにピンとこないところがある。
「あなたも……生きてる。姿形は変わっても、私たちは、生きて……また、会えた……」
前世から変わりのない、ぐしゃぐしゃに泣き濡れたその顔こそが。名前も種族も越えてサイトスの存在を喜んでくれる表情こそが、何よりも強くサイトスを捕らえて放さない。
「なら、いいよ」
あの日と同じ温もりを確かめるように、ブリジットの手はサイトスの背や腕を何度も撫でた。
「生きて、あったかくて、また会えたの。だから、もういいよね。ねこちゃんも私のこと、許してくれるよね……?」
サイトスが少しでも傷付けば、泣きそうになりながら心配してくれたブリジット。また蹴られていないかと、心配してくれたブリジット。彼女が本当に求めていたことを、やっとサイトスは理解した。
「も、もちろんだ。最初から俺は、──のことを恨んでなどいない。だ、だから……何もできずに死んだ俺を、許してくれ……!!」
しっかりとブリジットを抱き返しながら、自分が求めていたことも理解した。
今度こそ、一生懸命がんばるから。だから、あの日の無力だった自分を、彼女に許してほしかった。
彼女の傷になっただけで終わりたくなかった。
なぜなら自分のほうこそ今にも死にそうだというのに、死にかけの自分に愛を注いでくれた少女のことを、サイトスはずっと。
「サイトス……ブリジット……本当に、本当に良かった……!!」
泣きながら抱き締め合う二人を見つめ、庭の片隅に控えめに出現したイルファリアももらい泣きをしている。
「ありがとう、スノーブルー。あなたのおかげです」
「お気になさらず。ロウアーよりは出番もありましたし」
観察者の無表情で、その横に立ったスノーブルーは淡々と応じた。
「そうね。ここまで来ると、散々怖がられた上に、なしくずしにルートが終わってしまった彼が一番気の毒だったわね」
グレイシスもスノーブルーに同意した。
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