第32話 邪悪の再臨
グレイシスにも見限られてしまった。そうと分かっても、サイトスは立ち上がる気力を出せずにいた。
これまでのことを思い出せば思い出すほど、湧き出てくるのは無意味な後悔ばかり。ブリジットが前世の記憶を取り戻しかけている兆候は何度かあったのに、とにかく誰かとゴールさえしてくれればいいと先を急かしてばかりだった。もっと早くに「降臨」コマンドを使用し、イルファリアに相談していれば、違う未来があったかもしれない。
「いや……どうだろうな。エルハルトは、彼女がもっとも嫌っている兄だ。レヴィンとは、兄への複雑な想いを共有しているからこそ、妙な反応を示していた。攻略対象にあの兄弟王子が含まれている時点で、『ふわふわ姫』は避けるべきだったのかもしれんが……」
乙女ゲームには兄代わりとの一歩前進だの、兄弟に取り合われるだのというシチュエーションは多い。攻略難易度Fをマストとしていたせいもあり、選べる範囲は狭かった。実兄に迫られるなどといった、一発でブリジットが泡を吹きそうなものを除外すると、「ふわふわ姫」ぐらいしか残らなかったのだ。
「結局俺ごときが、あの子を助けようなんて考えること自体、思い上がりだったんだ。俺が余計なことをしたせいで、余計にあの子は……」
自責の念に押し潰されるかのように、サイトスは椅子の上でうずくまる。
そこに自責の念以外の重圧が加わり始めた。最初は勘違いかと思ったが、垂れ下がった銀髪の先がふるふると震えているし、床の上で細かなほこりが踊っている。程なく、そこら中から何かが軋む音が聞こえ始めた。
「な、なんだ!?」
メイドたちの悲鳴も聞こえてきたあたりで、サイトスは慌てて椅子から降りた。その拍子に、天井から降ってきた小さな木片が肩から滑り落ち、ほこりと一緒に踊り始めた。どう考えてもサイトス自身の葛藤とは無関係に、何かが起こっている。
「上……まさか、ブリジット様の身に、危機が……!?」
屋敷の二階は伯爵家の人々のプライベートな空間だ。奇妙な圧が来る源は、ブリジットが身を寄せているグレイシスの部屋ではないかと思われた。
「──行くぞ、サイトス! 貴様の葛藤など知ったことか、やはりグレイシス様任せにしたのは間違いだったのだ……!!」
一瞬の弱気を、自らの叱咤で払い除ける。明らかにこれまでとは違う異変が生じているのに、ぐずぐず背を丸めている馬鹿がどこにいる。なんのために、ブリジットの一番側にいられる役割を得たのだ!
「ええ、そうですサイトス。今こそ戦う時!!」
気合いを入れ直したサイトスに力強いエールが送られた。澄んだ女性の声には聞き覚えがあった。ずっともう一度、聞きたいと願っていた声でもあった。
「あ、あの……女神、イルファリア、様……?」
ぽろぽろと落ちてくる細かな破片を浴びてなお輝く、黄金の滝のごとき見事な金髪。可憐でいて芯の強さを窺わせる顔立ち。すらりとした肢体を包む清楚な白いドレス。サイトスのすぐ横に出現したのは、何度も降臨を願った女神その人だった。
「ええ、そうです。ごめんなさい、何度も喚ぼうとしてくれていたのに、手が一杯で応じられなくて……」
申し訳なさそうにするイルファリアに、サイトスは首を振る。ここで彼女を責めても意味がない。
「いえ、それは構いません。しかし、あなたが降臨されたということは、この世界への負荷は解消されたのですか? だから、このような反動が」
「いいえ、逆です。この世界は今や、崩壊寸前。──ご覧なさい」
白魚のような指先に促され、サイトスは窓の外を見た。そして、言葉を失った。
ストラクス伯爵領はファールン王国の中でも天候と作物に恵まれた、豊かな土地である。伯爵家の周りは青々とした草原に囲まれており、今の時刻であれば夕映えに燃えて金赤色の見事な波を作っているはずだった。
しかし、今サイトスの眼に映るのは、ただただ、金。
誰かのルートが終了すると、世界が金色の光に解体されていくのが「ふわふわ姫」のルールである。それが、今回の攻略対象であるロウアーとは有耶無耶のうちに別れて以来、顔も合わせていないのに勝手に起こっている。
「これまではなんとか持ち堪えてきましたが、負荷が大きすぎて、今や私にもこの屋敷一帯を維持するのが精一杯。だから、無理を押して来たのです。こんなことになってしまった以上、直接対決を避けることはできない……」
自らに言い聞かせるようにつぶやくイルファリアの声は、先程自分自身を叱咤したサイトスのものと少し似ていた。
「実はですね、サイトス。創世の女神イルファリアには、対になる存在がいるのです」
愛らしい顔を苦々しく歪め、イルファリアは世界の──「ふわふわ姫」だけではなく、彼女が統べる全ての世界の真実を語り出す。
「破壊の女神グレイシス。幸せになることを望む、全てのヒロインたちの涙で喉を潤す、最悪の敵です……!!」
※※※
イルファリアと共に部屋の外に出たサイトスは、混乱して逃げ惑う召使いたちに「一階でご主人様たちをお守りしろ!」と手当たり次第に言いつけながら、自分たちは流れに逆らって二階に上がった。目的はもちろん、通い慣れた感もあるグレイシスの部屋だ。悪役令嬢の居城だから、では到底片付けられない圧迫感に逆らい、体当たりするようにして扉を開く。
「グレイシス、ブリジット様から離れろ!!」
「あらあら。戦線離脱したはずのヒーローが、ずいぶんと強気なこと」
大きな寝台の上、淡い金色の光を発しながら苦悶の表情を浮かべて寝そべっているブリジットを見下ろしていたグレイシスがゆっくりと振り向いた。サイトスが彼女との関係を直観したスノーブルーの姿も見えるが、彼は二の次だ。ブリジットにも、今駆け寄ることはできない。
本性を露わにしたグレイシスの放つ圧迫感が強すぎて、近付けない。
女神の力を取り戻したグレイシスの姿は、特徴的な縦巻きロールこそ残っているが、年齢は十ほども大人びて見えた。イルファリアよりもさらに背が高く手足が長く、紫の艶を帯びた漆黒のドレスに身を包んだ姿は、破壊の女神の名に相応しい。深紅の唇を裂くようにして、彼女は艶やかに笑った。
「あなたの強気の理由は、そこの女神なんだろうけど……ふふふ、どうしたの? 愛くるしい顔をもっとよく見せて、イルファリア」
「イルファリア様?」
不審を覚えたサイトスが振り返ると、いつの間にかイルファリアはサイトスの背後で身を縮こまらせている。風格にあふれたグレイシスと比べるまでもなく、創世の女神とは思えない態度だ。
「ど、どうなさったのですか。なぜ私の後ろに隠れて……あなたがおっしゃったのでしょう、今こそ戦う時だと……!」
「そ、そうです、そう、だけど」
自分が打って出るしかない、との勢いで「降臨」コマンドもなしに来てくれたイルファリアであるが、対にして最悪の敵と対峙しているからだろうか。男を前にしたブリジットと同じぐらい、その顔は青い。
「ほ……本当は私だって、来たくなかった。お姉様とは、二度と会いたくなかったのに……!」
「……お姉様?」
呆けたように復唱するサイトス。まさかの思いを、グレイシス本人が肯定してくれた。
「あら、まだ聞いていなかったの。ええ、そうよ。可愛い可愛いイルファリアは、わたくしの妹なの」
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