第31話 あなたは誰?

 冷静に振り返ると相当に失礼な態度を取ったはずなのだが、ブリジット同様、サイトスもなんのお咎めもなしでストラクス伯爵家に戻って来られた。

 だが、仮に牢に入れられたとしても逆らうことはなかっただろう。正直、どうやって帰ってきたのか覚えていない。気が付くとサイトスは自分の部屋で一人、ぼんやりと椅子に座っていた。


「なんでだ?」


 だらりと腕を下げたまま、光のない瞳で虚空を見つめ、ぶつぶつと繰り返す。窓の外では陽が落ち始めており、褪せた光が疲れた横顔の陰影を一層深くしていた。


「なんで、あの方の記憶が戻った? 過去のことは忘れ、お嬢様はこの世界で一生安楽に暮らせる。そういう約束だったじゃないか。なんで。女神イルファリアよ、どうして……」


 責める言葉ではあるが、責める口調ではない。誰かのせいにする気力すらなかった。そもそも誰が悪いのかは、サイトス自身が一番よく分かっている。

 問いかけに対する答えはない。ここに至っても女神降臨の気配はない。執事としての仕事をきちんと行うよう、誰かが言いに来るのではないかと思っていたが、そんな様子もない。サイトスの焦燥ぶりを気遣って、放置してくれているのだろう。つくづくと甘い世界。

 それなのに、どうして。堂々巡りを繰り返しているうちに、ノックの音が聞こえてきた。


「サイトス、勝手に開けるわよ」


 礼儀正しいノックを数度行っても、無反応なことに焦れたのだろう。そんな言葉と同時に室内に滑り込んできたのは、


「……グレイシス、さま」

「がっかりさせたかしら?」


 縦巻きロールを払い、高慢に笑うグレイシスにサイトスは首を振った。来るとすれば、彼女だろうとは思っていた。


「ブリジットなら大丈夫よ。とりあえず、わたくしの部屋で眠っているわ」


 簡潔な説明にも、膝頭をぐっと握り締めてうなずくのみに留めた。ならば、いい。彼女が安心して眠れているのならば。


「察しが良いのね。そのとおりよ。あの子、あなたと顔を合わせたくないから、わたくしの部屋にいたいんですって」

「……ッ」


 なぶる響きを持った追加説明にも、膝頭に爪を立てる以外の何ができるだろう。悪役令嬢にヒロインを任せきりにしている、その愚かさは百も承知。しかし、前世の記憶を思い出してしまったブリジットにとって、あらゆる男は恐怖の対象である。

 まして彼女は、サイトスのことを兄だと思い込んでいるのだ。パニックに陥り、ゲームの世界観と合わないことを口走りかねない今のブリジットの世話が出来るのは、女性であり、ある程度事情に詳しく、プロの矜持を持つグレイシスが最適だろう。


「返せとは言わないのね」

「……今は……あなたにお任せするしか、なさそうですから」

「あらそう。なら、落ち着いたらまた、あなたが仕えることができると?」


 悪趣味な方だ、と伏せた瞳の陰で考えた。答えは分かっているだろうに。そんな気持ちを見抜かれたのだろうか。


「ねえ、サイトス。あなたは誰?」


 単刀直入な質問に、サイトスはひゅっと息を呑んだ。


「ブリジットは、前世のお兄様だと思い込んでいるようだけれど。でも、あなたは違うと言いたげだった。お父様やお母様、というわけでもなさそうね。なら、あなたは誰?」

「俺は……」


 我知らずうつむく銀髪に、容赦のない追及は降り注ぐ。


「あの子が思い出していないだけで、別に家族がいるのかしら。親戚とか?」

「……違います」

「お友達とか」

「違います。あの子はずっと、家に閉じ込められていて……友達なんて、作れなかった」

「そう。なら、彼女をこの世界のヒロインとして設定し、永遠の幸福を与えようと必死なあなたは、一体誰? どうしてそこまでして、あの子に尽くすの? 家族でも友達でも、恋人ってわけでもなさそうなのに」


 サイトスはただ、膝の上で拳を握っているだけだった。しばらくは彼を見つめていたグレイシスは、あっさりと「まあ、別にいいわよね」と追及の手を緩めた。


「あなたが誰であろうが、もうどうでもいいことだわ。だってあなたの役目は、もう終わったのだし」


 弾かれたように顔を上げたサイトスに、グレイシスは肩を竦めてみせた。


「だって、そうでしょう? このゲームも四周目。流れはブリジットもすでに理解しているでしょう。ロウアー・ルートの恐怖部分は通り過ぎたのだし、あとはツンデレ宰相のベタベタなデレをたっぷり浴びて、最後の告白を受ければそれでお終い」


 ナビゲーターは要らないだろう、とグレイシスは笑った。


「何より今のあなたは、ブリジットに恐怖を与えるだけの存在なんだもの」


 むしろ、いるほうが邪魔だろう、と彼女はさらに笑った。サイトスは、何も言い返せなかった。


「ではね、サイトス。心配しないで、あなたも知ってのとおり、この世界の人々はとっても優しいの。お嬢様付きの執事から外されたとしても、きっと別の仕事を与えてもらえるわ」


 一人一人、別々の幸福なら掴めるだろう。見え透いた嫌味にもサイトスは、石像のように押し黙ったままでいた。


※※※


 サイトスの部屋を出たグレイシスは、鼻歌でもくちずさみそうな浮かれた足取りで、うきうきと自分の部屋に戻った。


「ただいま。あら、起きていたのね、ブリジット」

「……サイトスのところに行っていらしたの、お姉様」


 豪奢な寝台の上で半身を起こしたブリジットの顔色はまだ悪いが、瞳は昏い光を宿して鈍く輝いていた。グレイシスは浮ついた笑みを引っ込め、眼差しで侍女たちを下がらせ、内鍵をかけてから答えた。


「察しが良いこと。なら、彼がなんと言ったかも分かったわね。サイトスにはこれ以上、あなたを助ける気はないみたい」

「……、……!!」


 ブリジット自身が先にサイトスを拒絶したのである。猫撫で声ですり寄られたところで、より激しい拒否反応を示すだけだっただろう。それは自分でも分かっているだろうに、眼に見えてブリジットはショックを受けていた。

 なんと愛らしいこと。舌舐めずりを隠して、グレイシスは自分が猫撫で声を出した。


「かわいそうに、ブリジット。あなたはいつも、信じていたお兄様に見捨てられてしまうのね……」

「……いいの。私に、愛される価値がないだけだから」


 しょせんサイトスは、兄は、独り善がりな罪悪感を解消するためだけに、妹をこの世界に送り込んだのだ。妹が本当に求めているものがなんなのか、考えもせずに。つまりは彼には最初から、本気でブリジットに寄り添う気などなかったのだろう。


「でもね、大丈夫よ、ブリジット。だってあなたは、女神イルファリアに選ばれし乙女なのでしょう?」


 かたくなな心を否定せず、グレイシスはゆっくりとブリジットを誘導し始めた。はっとしたように見つめてくる瞳を見返し、その底まで届くような微笑みを浮かべながら、優しく手を握ってやる。


「今こそ、あなたがこの世界の頂点に立つ時よ。さあ、ブリジット。今度こそあなたは、誰かに任せることなく、己の手で幸せになるのよ……」

「私の……手で……」


 復唱する声は寝ぼけたような響きを持っているが、その瞳を満たし、溢れ出す光は寝ぼけた小娘が出せるようなものではなかった。グレイシスの導きを受けた彼女は、一度はサイトスに懇願されて諦めた覇者への扉を自ら開いていく。


「──そう。その調子よ、ブリジット」


 膨れ上がっていく存在感にベッドが、やがて部屋全体が悲鳴を上げ始めたが、間近で妹の手を握っているグレイシスだけは小揺るぎもしない。その双眸は邪悪な喜びを隠そうともせず、ブリジットのそれと呼応するように輝きを増していく。


「ふふ、それにしても、甘美な響きね。女神イルファリアに選ばれし乙女。世界に危機迫りし時、女神は清らかな乙女を選び、己の代行者とする──」


 教典に刻まれたこの一文を、サイトスもブリジットも、ブリジットの先の展開を話すという失態を埋めるため、唐突に出現したものだと考えているようだ。

 確かに唐突である。だから、うっかりしてしまったのよねと、グレイシスはほくそ笑む。

 サイトスたちは知らないが、実はこの世界には脅威が存在する。王子たち同士の内乱レベルのものではない、世界の根源にまつわる脅威が。ゲームのルートを知っているどころか、ルールさえ引っくり返すことができる存在が。

 ところがブリジットのポカを誤魔化すために、思わずこのゲームは──創世者であり管理者であり奴隷である女神イルファリアは、乙女ゲームのヒロインにありがちな概念をでっち上げてしまった。ふわっと予言者にでもしておけばいいものを、「世界に危機迫りし時」と、わざわざそれっぽい条件を付けてしまった。

 逆に言えば、女神の代行者が存在するということは、世界に危機が迫っているのである。サイトスたち、そして彼等を幸福にしようと必死なイルファリアがルート併走バグに気を取られている間に、せっせと補強してきた概念はここで完全なものとなった。

 かくして弱体化させられ、登場人物の一人に押し込められてなお、どうしても消すことのできなかった脅威もまた、完全に存在を認められた。


「つまりは、わたくしの存在が、この呆れるほどに平和な世界に受容されたも同然。そうよね? 可愛い可愛い、わたくしのイルファリア……」


 悪役令嬢グレイシス。そう呼ばれていたモノが浮かべる蕩けるような微笑みも、力に呑まれていくブリジットの眼には映らない。忽然と出現したスノーブルーだけが、姉妹の姿を冷めた瞳で観察していた。

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