第30話 大好きだった
押し寄せる記憶の波におぼれそうになりながら、ブリジットは必死で足を踏ん張って耐えていた。負荷が高すぎるせいか、意識に流れ込む景色のあちこちは激しいノイズで乱れている。それでも、おおまかな内容は理解することができた。
前世にてブリジットは四人家族の末の妹として生を受けた。少しばかり酒癖が悪い父、家庭的で温和な母、寡黙だが優しい兄。彼女がまだ本当に幼いうちは、一家はそれなりに幸福な暮らしを送っていた。
しかし、様々なストレスから酒量が増えた父は酔って暴れるようになり始めた。温和な母は父の暴力が自分に向くことに怯え、彼が子供たちに拳を振るうことに見て見ぬ振りをしがちな、悪い意味で保守的な母となった。
学校にも通わせてもらえず、家の外に出してもらうことすらめったにない。逃げ場のない子供たちは親の気まぐれに振り回され、なんの根拠もなく「お前が悪い」と怒鳴り付けられながら、息を潜めて暮らすしかなかった。
「大丈夫。お兄ちゃんが、守ってやるから」
母と違って、兄は積極的に前世のブリジットを庇ってくれた。サッカーボールか何かのように執拗に蹴飛ばしてくる父から、丸めた体の下で守ってもらったこともある。痛い思いをした兄には申し訳ないが、壊れかけた家庭の中にも自分を愛し、助けてくれる存在がいる。それが前世のブリジットにとって、唯一の生きる希望だった。
「お兄ちゃん、大好き!」
あの頃は、なんの疑いもなくそう言って笑い合うことができた。
だが、教育機関からの再三の要求により、「長男だからな」と渋々父が許可を出し、兄だけが学校に通い始めてから事態が変わった。外界と触れ合う彼は食事を抜かれる頻度も下がり、体格もめきめきと良くなっていった。同年代の友達と遊ぶことを覚え、その分妹に構わなくなった。思春期に入った頃には言動も粗野になり、父のコピーのような振る舞いが目立ち始めた。
……そして兄は、両親の側に付いてしまった。父と一緒になって痩せ細った妹を小突き、蹴り倒し、一人だけ食事を与えず庭に放り出す。
「なんで、どうして私だけ」
「お前は可愛くないからな」
「学校にも行っていない馬鹿に食わせる飯はねえよ」
泣きながら前世のブリジットが訴えるたび、男二人はそっくり同じ表情で嘲笑う。母はそのやり取りが自分に飛び火しないよう、卑屈な笑みを浮かべて眺めているだけなのだった。
このあたりから先の記憶は、あまりにもノイズが激しすぎてよく分からない部分が多かった。つまりは、さらにひどい出来事しか起こらなかったのだろう。
血の気の失せた唇を噛み締め、見守るしかないブリジットの記憶は再び鮮明になっていく。立ち上がるのにも一苦労。同年代の子供たちの半分ぐらいしか体重がない前世のブリジットに、ある日こっそりと母が話しかけてきた。
「みんなで死のう」
「……うん、わかった」
夫と息子、二人に増えた暴君に母が傷付けられることも増えていた。長い間見て見ぬ振りを続けてきた彼女の視界は狭く、広く世間に救いを求めるような手段は考えつかなかった。母以上に家の外を知らない、前世のブリジットも同じだった。
未来に希望なんてない。自分で死ぬ気力さえ残っていなかったから、いっそ誰かに終わらせてほしかったのだ。ひどく安心した気分で、料理に薬を混ぜる母を見守っていた。最後に温かいご飯を食べて眠れるのなら、もうそれでいいと思っていた。
自分が傷付いてでも守ってくれた優しい兄でさえ豹変し、信頼を裏切った。男に期待なんてできるはずがない。
自分が愛されるに足る存在だなどと、信じられるはずがない。
※※※
「……お兄ちゃん?」
愕然としているサイトスを、ブリジットは恐怖と怒りが満ち満ちた瞳でにらみつけている。
「とぼけないでよ、お兄ちゃんなんでしょ。一家心中でやっと眼が覚めて、私を幸せにしてくれようってわけ……?」
決め付けられて、サイトスは思わず言い返そうとしてしまった。
「ブリジット、俺は」
「近付かないで!」
サイトスはその場から動いていない。しかし彼が口を開いた瞬間、ブリジットは痙攣するように震えながら後ずさった。
「お兄ちゃんじゃなきゃ誰、お母さん!? まさかお父さんじゃないよね……!?」
語尾が引きつったような笑いにかすれる。喉と心を痛め付けるような笑みは、愛されることが約束された世界のヒロインには相応しくない。
やめてくれと、訴えかけたことに気付いたのだろう。ブリジットはロウアーに放り投げられた時よりも髪を振り乱し、サイトスを拒否する。
「やめて! 側に来ないで!! お兄ちゃんのことなんて信じられない、もう放っておいてよ!!」
そこまで二人のやり取りを呆気に取られながら静観していたセイとアルバートが、そろそろと口を開いた。
「……お兄ちゃん? あの執事とあなたは、血縁者なのですか……?」
「聞いたことのねえ話だな、レディ。急にどうした。やっぱり、どこか怪我でもしたのか?」
「来ないで! 触らないで!!」
美点を認めたはずの二人をも、ブリジットは同じように拒否した。
「男なんて大嫌い! 誰も信じられない!! 最初は優しくしてくれても、どうせ裏切るんでしょう。だったら最初から、優しいふりなんてしないでよ……っ……!!」
泣きながら叫んだブリジットは、逃げ道を探して忙しなくあたりを見回している。追い詰められた小動物のような姿を見ながら、ゆっくりと話し始めた者がいた。
「まことに申し訳ありませんわ、皆様。ブリジットときたら、すっかり取り乱してしまって……」
「お姉様……」
グレイシスだった。プロの悪役令嬢として、何かと周囲に噛み付くばかりだった彼女は、落ち着き払った態度で謝罪した。
「修道院から帰ってきたばかりの、世間知らずの子供のすることです。どうぞ広い心で許してやってくださいな」
「ああ、もちろんだ」
振られた身でもヒロインに甘いエルハルトは、すぐにそう請け合った。名家の子女に恥をかかせてはいけないと、次代の王らしく計算したのかもしれないが。
「ふん……殿下がそうおっしゃるのなら、不問と致しましょう」
ロウアーもエルハルトが言うなら仕方がない、とばかりの態度で彼の発言を後押しする。ありがとうございます、と微笑んだグレイシスはすっとブリジットに寄り添った。
ブリジットはびくっと身を竦めたが、彼女は女性である。兄でも、母でも、父でもない。……ああ、ブリジット様が妙にレヴィン殿下と親しげだったのは、兄への屈折した感情を共有しているせいかと、サイトスはぼんやり考えた。
「ブリジット、さあ、わたくしと一緒におうちに帰りましょう。サイトス、この子はわたくしの馬車で送りますから、あなたは下がりなさい」
「で、ですが、グレイシス様」
現実逃避めいた思考から引き戻されたサイトスだったが、ブリジットはグレイシスの影に隠れ、こちらを見ようともしなかった。
「……はい。分かりました」
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