第29話 何より恐れていたこと
グレイシスの本当の企みを知らぬまま、サイトスはブリジットと共に、来たるべき日に備えて準備を重ねていた。
そしてついに、その日はやって来た。都合四度目となる初登城の日。ファーレン王宮謁見の間にて、ブリジットは一人前のレディとして、気難しい顔で玉座に腰掛けているエルハルトに挨拶をしようと近付く。
「あーら、鈍くさい子ねえ!」
玉座を目前にして、声高に叫んだグレイシスにドレスの裾を踏みつけられ、ブリジットはバランスを失う。ここで耐えてもらうことも考えたが、グレイシスのドレスの裾踏みの腕前は見事だ。下手に逆らってまたバグを誘発しても困るため、恒例の流れに任せるよう伝えてあった。
倒れ込む華奢な体。行き着く先はやはり、エルハルトでもレヴィンでも彼等の従者たちでもなく、少し離れた位置から全体を観察していたロウアーである。重たげな衣装の裾をさばき、素早く走り込んできた彼が、ブリジットをキャッチ。
とほぼ同時にリリース。
「きゃあッ!?」
空中に投げ出されたブリジットは、当然ながら驚愕の悲鳴を上げた。長い黒髪に若白髪が目立つ、片眼鏡をかけたロウアーはいかにも頭でっかちな宰相という風情だが、足も速いし力も強い。放り投げられたブリジットは、このままだとグレイシスに転ばされそうになった時よりも派手に床と激突することになるだろう。
そうはさせないと、サイトスは謁見の間の床を蹴りつけて飛んだ。野生の獣のごとき華麗な身のこなしで、落下中のブリジットを見事に抱え、危なげなく着地を決める。
「や……やった! やったぞ……!!」
万感の思いを込め、かすれ声で喜びを口に出したサイトスは、腕の中で呆然としているブリジットを見つめた。衝撃でハニーブロンドが乱れているが、それだけだ。
「ご無事ですね。どこも怪我はありませんね、お嬢様!!」
「え、ええ、無事よ。怪我もないし、痛くもない……」
それを聞いた途端、サイトスは我知らず瞳を潤ませた。
「よ、良かった。本当に、本当に良かった……! ご安心くださいお嬢様、恐怖は去りました……!!」
何度も何度もシミュレーションを繰り返した努力が報われた。安堵のあまり泣きそうになっているサイトスを見て、ブリジットはこわごわと尋ねた。
「え? まさか、サイトス……たったこれだけのことを、そんなに警戒していたの……?」
「当たり前ではないですか! このイベントはロウアー・ルート決定のために絶対に必要で、そのために私が代わって差し上げることはできないのですよ!?」
王子たちのルートにて、グレイシスの刺客に襲われる時とは異なる。ここでは明確に、ロウアーとヒロインの接触が必要なのだ。
床には質の良い絨毯が敷き詰められており、ブリジット自身にも受け身を取る練習はしてもらったが、油断は禁物。砂糖より甘い世界観のため、大怪我などしないことは理解しているが、ブリジットにはどんな小さな痛みでも味わってほしくないのだ。
「ロウアー、何をする!」
切々と訴えるサイトスを尻目に、エルハルトは激昂して立ち上がり、ロウアーを叱り付けた。
「失礼いたしました。ですが、殿下の御前で妙な行いをする者は、如何なる者であっても排除するのが私の務めですので」
守り育ててきた第一王子が相手であっても、いやだからこそ、ロウアーの態度はブレない。戴冠目前と噂されるエルハルトの身を守るのが己の職務。そのためであれば、王子自身に疎まれようが平気なのだ。
全ては主の平穏と幸福のため。揺るがぬ態度には共感すら覚える相手だが、彼は最初からヒロインに敵意を向けてくる登場人物である。攻略対象であるため、グレイシスと違って「私用」で協力を要請することもできない。
「やれやれ。ストラクス伯爵家の娘たちは、揃って我が君の印象に残ろうと必死だな」
ふん、と冷たい息を吐いたロウアーが、色の薄い瞳でグレイシス、そしてサイトスに付き添われながら立ち上がったブリジットをにらみつける。彼がブリジットに厳しいのは、グレイシスの行いのせいである。主にエルハルトに取り入ろうと、この数年間彼にベタベタしてきた姉のせいで妹まで印象が悪くなっている、という設定なのだ。
「ふ……ふん、特に妹のほう……ブリジット、とか言ったか。なんと可憐な……いやいや、いかにも男をたぶらかす、邪悪な面構え。エルハルト殿下は国王になられる日も近い大切な時期なのだ、貴様のような悪女を側に寄せ付けるわけにはいかん! 社交デビューなど許さんぞ、貴様は私と……いや、その」
が、なにせ攻略難易度Fワールドの男であるため、実際にブリジットと顔を合わせると速攻で好意を持ってくれる。
「な、なんだロウアー、一体どうした? お前らしくもない……確かにグレイシスの妹は、聞いていたよりも愛らしいが……」
「ロウアー、どうしたのさ。なんでそんなにブリジットちゃんを警戒するの? そりゃ可愛いけどさ。へええ、お前が赤くなってるのなんて、初めて見たよ」
堅物で知られたロウアーのあからさまな変化に、エルハルトとレヴィンも眼を丸くしている。合間にブリジットを褒めるのも忘れない。特にレヴィンについては、従者ルートで見たシュールな姿の印象が残っているだけに、プロの仕事ぶりにサイトスは敬意を持った。
「レヴィン王子はグレイシス様と違って、妙な趣味のためにやっているわけでもないだろうしな……」
レヴィンにも「私用」コマンドは使えないので真偽を確かめる方法はないが、全員が変な趣味を満たすために「ふわふわ姫」世界の登場人物をやっているわけではあるまい。もっとも男に対する視線が歪んでいるブリジットは、レヴィンをクズだと決めつけて失礼な評価をしまくっていたが。
バグのせいできちんと向き合うことは難しかった、セイやアルバートの美点はしっかり認めてくれたのに、どうしてルートの最後まで来てブリジットはレヴィンの評価を覆したのだろう。途中経過では、他の攻略対象とより打ち解けた雰囲気だったのに。
めまぐるしく進むゲームの中、置き去りにしてしまっていた疑問に気を取られたサイトスの視界の端で金色のものが跳ねた。怪我一つしていなかったはずのブリジットの体が、床にくずれおちていく。
「ブリジット様!?」
肝を潰したサイトスだが訓練は彼を裏切らない。ブリジットが倒れる前に、しっかりと彼女を支えた。
「触らないで!」
だが、ブリジット本人がサイトスを拒絶した。二人の間でぴんと張られた細い腕が、ぶるぶると震える肩が、恐怖に歪んだ表情の全てが彼を拒んでいる。
「ブ、ブリジット、さま」
ブリジットに代わって刺された時さえ苦笑で終わらせたサイトスだ。今その顔は紙のように白く、たくましい腕は主を支えているというより彼女の腰に巻き付けてあるだけの状態だった。
脱力した腕を、ブリジットは容赦なく払い除けて距離を取った。彼女の顔も血の気が引いて真っ白だ。
「思い……出した。私、思い出したわ、お兄ちゃん」
お兄ちゃん。静まり返った謁見の間の中に、サイトスを指す言葉が響き渡った。
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