第10話 さよなら、第一王子様

「なんのお話でしょう、殿下」


 宰相ロウアーは白々しくつぶやくが、エルハルトは引き下がらない。


「とぼけるな。レヴィンを先に襲わせ、俺たちの間に不和の種を撒いたのは貴様だろう」


 確信の籠もった言葉を聞いて、ロウアーもつまらぬ時間稼ぎをする必要性はないと判断したようである。


「さすがファールンの未来を背負う御方だ。覚醒されるまでに少々時間はかかりましたが、及第点と致しましょう」

「ふざけるなよ貴様。俺の資質を試すために、我が弟と、我が最愛の女性を巻き添えにしたのだぞ!?」

「エルハルト殿下……!」


 かっと眼を剥くエルハルトの叫びに、ブリジットも弾かれたように反応した。通常のヒロインであれば告白も同然の言葉に感銘を受けるところだが、多分うちのお嬢様は違うだろうなとサイトスは悲しく考えていた。


「それについては申し訳ありません。ストラクス伯爵嬢が巻き込まれたのは、私の本意ではありませんでした」

「……まったく」


 つまりはロウアーは、レヴィンについては傷付けることもやむなしと思っていたわけだ。エルハルトは深々と嘆息した。


「最悪の場合、俺は未来の補佐も、現在の補佐も失うところだったのか。余興で片付けられる規模の話ではなし、貴様らには相応の罰を下さねばならん。追って沙汰をするので、それまで謹慎を申し付ける」

「御意」


 自身の処置についても覚悟の上だったらしく、ロウアーはこれも平然と受け入れる。


「……もちろん俺も、玉座を示された身でありながら、未来の補佐と現在の補佐の信頼を得られていなかった恥を掻くことになるだろう。病床の父上と国民に申し訳ないことこの上ないが、今さら玉座を空にはできん。一から再び、積み上げていくしかないな」


 やれやれと肩を竦めたエルハルトの眼が、再びブリジットを見据えた。


「ブリジット。不甲斐ない俺には、お前に側にいてもらう必要がありそうだ。未来の王妃として、共にこの国を支えてくれないか?」


 ブリジットの肩がぴくりと揺れた。サイトスは無言で彼女の退路を断つ位置に立った。ロウアーは物言いたげな様子ながら、謹慎処分を下された身であるゆえか、ため息に留めた。


「グレイシスのことなら心配は不要だ。可愛いお前の姉とはいえ、だからこそお前を傷付けようとした彼女はきちんと処断せねばならん。これ以上お前に仇なすようなことは、絶対に俺がさせない」


 裏で糸を引いているのは誰か分かっていると、エルハルトは断じた。ブリジットへの好感度は百パーセント。弟との確執にもカタは付いた。

 二人で迎えるハッピーエンドへの手筈は整っている。満を持してしゃべり出したエルハルトの顔を、ブリジットはおろおろしながら眺めた。


「サ、サイトス……」

「ご自身で判断してください、お嬢様。エルハルト殿下が、ただのクズに見えますか?」


 怯えるようにこちらを振り仰ぐブリジットに、厳かに言い聞かせる。精神的な退路も断たれたブリジットは、やむなくエルハルトに視線を戻した。

 わずかに目元を赤らめたエルハルト。ブリジットに対する情動はバグっているが、国王に相応しい器を備えた青年。ぶっきらぼうだが優しい、兄。

 そんな男がヒロインだけを溺愛してくれるのが乙女ゲームの醍醐味というもの。この世界で生きていくのなら、身も心も彼に預けて問題ない。ここは夢の世界。愛も信頼も、裏切られることはない。ブリジットはぎゅっと小さな拳を握り締めた。


「私、私やっぱり、あなたと結婚なんてできない……!」

「お嬢様!?」


 行ける、と確信していたサイトスは泡を食ったが、エルハルトの反応は静かだった。


「──そう、か」


 悲しみを湛えながらも、その瞳に濁りはない。無論、よくも俺の気持ちを撥ね付けたな、などと暴れ出したりもしない。


「分かった。婚姻には二人の合意が必要不可欠。お前が嫌だと言うのなら仕方がない」

「くっ、さすが攻略難易度F……ヒロインの意思が、最大限に尊重される……!!」


 この瞬間だけ、ちょっとクズになってゴネたり権力を乱用したりしてほしかった。悔しがるサイトスをよそに、ブリジットは深々と頭を下げた。


「……この間、お母様の悪口を言ってしまって、ごめんなさい。あれは嘘です。王妃殿下は、私なんかよりずっとずっと、素敵な方です」


 それは、心からの謝罪だった。エルハルトのことも今ではクズだと断じきれないのに、会ったこともないその母を貶めるなど、できるはずもない。


「あなたと結婚できないのも……あなたが悪いんじゃないんです。私に……未来の国王陛下の花嫁になるような、資格はないから……」

「そんなことはない!」

「そんなことはありません!!」


 か細い語尾に被せるようにエルハルトとサイトスが同時に怒鳴った。失礼を、と咳払いしてごまかすサイトスとブリジットを、エルハルトは交互に見やる。


「……なるほど」


 得心したように、そして何かを諦めたようにつぶやいたエルハルトは、ふっと優しく笑った。


「取り急ぎ、今日のところは部屋に戻るがいい。サイトスには医者を寄越す。──さらばだ」


 潔く別れを告げたエルハルトが背を向ける。この場での別れ以外の感情が詰まった一言を聞いた瞬間、ブリジットもサイトスも理解した。エルハルトとのエンディングは閉ざされたのだ、と。


「エルハルト殿下……」


 何食わぬ顔でセイと今後の相談を始めた彼の名を、ブリジットはそっと呼んだ。


「……これでいいのよ。あなたが本当にいい人なら、私は相応しくない。今だけ擬態しているクズなら、絶対結婚なんてしたくないし……」


 その心を閉ざす氷にも、春風が届いた手応えはあった。エルハルトには悪いが、彼は彼の役目を果たしてくれたのだと、サイトスは一定の満足を得た。


「さあ、お部屋に行きましょう、サイトス。お医者様に診て、もらわな、い、と……」


 気を取り直して、ブリジットも踵を返す。その意識に突然霞がかかり始め、体全体が淡い光に包まれていく。


「な、なに……? まさか、やっぱり殿下が何か……!?」


 ホラー映画か何かなら、一難去ってまた一難という展開もあろうが、愛されることを保証された乙女ゲームの世界にそんな仕掛けはない。安心してくださいと、サイトスは柔らかく微笑んだ。


「一つのルートが終わったからです。次の『運命の始まる日』まで、しばしお休みください、私のお嬢様……」


 光の粒に解体されたブリジットの姿が消えていく。エルハルトたちの姿も消えていく。無人となった王宮自体も、ほろほろと溶け崩れていく。


「ふ、ふふ……」


 その様を眺めながら、サイトスは銀髪をかき上げて声高らかに笑った。 


「甘いですよ、お嬢様! 確かに兄王子との単独ルートは消えましたが、攻略対象はまだ五人も残っているのです!!」


 ブリジットが誰かと結ばれない限り、世界は『運命の始まる日』に再び時を戻す。まだ一人、たった一人、彼女の心の壁を破れず引き下がっただけ。最終的には必ずや、ブリジットは誰かに愛し愛されることになる。

 世界の理に勝てるほど、彼女は強くないのだから。


「諦めなさい、あなたは必ずこの世界で完全無欠の幸せを手に入れるんだ! 俺が、必ずそうするんだ……!!」


 固く拳を握り締め、ラスボスさながらに断言したサイトスの姿も、きらきらと光りながら消えていく。


「ねえ、サイトス。もしかすると、我が妹を一番傷付けられる方法って……」


 その様を少し離れた場所に立って眺めていたグレイシスは、紫の瞳を細めて独りごちた。


「……ふふ、ふふふ。ええ、ええ。次も愉しみねぇ、うふふふ……」


 毒を秘めた微笑みを浮かべた彼女も、同じ光となって消えていった。


※※※


エルハルト・ルートはこれで終了。次回から新章です。

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