第7話 過去の爪痕

 エルハルトたちの姿が遠ざかったのを確認し、サイトスはグレイシスに一礼してから肩で息をしているブリジットに近付いた。


「大丈夫ですか、お嬢様」

「きょ、今日のところは、これぐらいで勘弁してあげましょう……」


 謎の負け惜しみを発したブリジットは、一呼吸置いてサイトスに窮状を訴えた。


「どうしようサイトス、完璧にクズ一号のルートに入ってしまったみたい……!」

「そのようですね」


 否定も肯定もせず、ただ受け止めたサイトスを尻目に、追い詰められた(と思い込んでいる)ブリジットは自ら迷路に踏み込んでいく。


「逃亡……だめね。みんなで逃げる準備をするには、かなりの時間が必要だし、仮に逃げたとしても相手は次代の王。国外へ出たとしたって、すぐに追っ手がかかるに決まってるわ。あの手の男はヒグマ、味を覚えた獲物を決して逃がさない……」


 痙攣するような瞬きを繰り返していた瞳が見開かれた。


「こうなったら一か八か、暗殺……!」

「落ち着いてください、お嬢様」


 慎重に言葉を選びながら、サイトスは彼女に言い聞かせた。


「あなたがどうしてもとおっしゃるなら、王子でも誰でも殺してやりますが……その後は大逆罪で一族郎党、首を刎ねられますよ。弱者の報復など一時の快楽を得られるのみ。強者の制裁の呼び水にしかならないと、あなたが一番よくご存じでしょう……?」

「……あッ」


 再考を促す優しい声。それがブリジットの暗い記憶を揺さぶった。


 酒に焼けた父のだみ声。空き瓶の砕ける音。さっさと買ってこい、と投げつけられる小銭。助けを求めて瞳を彷徨わせても、他人事のような顔をした母は目を合わせてくれない。娘を庇えば、夫の暴力が自分に向くと分かっているからだ。

 前世のブリジットも、本当はとっくに分かっていた。家の中に、もう自分の味方はいないのだと。


「お嬢様!? 申し訳ありません、不愉快なことを思い出させてしまって……!」


 軽い脅しのつもりで発した言葉によって、ブリジットは真っ青になり息を詰めた。彼女よりなお青い顔をしたサイトスに取り縋られた拍子に、潰されていた息がひゅ、と唇から抜けていった。


「……いいえ。大丈夫。ありがとう、サイトス。おかげで私の立場を思い出せたわ」


 サイトスの言うとおりだ。ブリジットがほしいのは、ささやかな復讐の快楽などではない。恒久不変の、誰の変化によっても壊されることのない、自立した幸福なのだから。


「その調子です。ご心配なく、エルハルト殿下とはたった二度会っただけではありませんか」


 生気を取り戻したブリジットへの罪悪感を押し殺し、サイトスは再び誘導を始める。


「このゲームは攻略難易度F。誰かの個別ルートに入ったということは、エルハルト殿下以外の男の好感度を気にする必要はありません。あの方にさえ、嫌われてしまえば……」

「あのクズとエンディングを迎えることは絶対にない、というわけね。希望が見えてきたわ……!」


 ぐっと拳を握ったブリジットの瞳が熱く輝き始める。


「そうよね。前世とは違う。私にはサイトスもいるし、お姉様もいらっしゃるんだもの! 打てる手は無数にある。絶対に諦めないんだから……!!」

「その意気です。ですが、今日のところは少しお休みください。さあ、お茶とお菓子を用意しますので、お部屋へお戻りになって……」


 長時間、と言ってもエルハルトと一緒にいたのは一時間ぐらいだが、ブリジットの気力も体力も限界が近いことをサイトスは見抜いていた。ブリジットも疲労の自覚はあったようで、素直に部屋に戻っていく。

 憔悴が色濃い小さな背を見ていると憐れみが募る。彼女を悲しませたくない。苦しませたくない。

 だからこそサイトスは、また心を鬼にする。


「……ふ、ふふ、まだまだ甘いですね、お嬢様。すぐにあなたも思い知るでしょう、攻略難易度Fの男たちの恐ろしさを……!!」

「サイトス、あなたも分かってきたようね。この高雅な趣味を……」

「そういう意味ではありません」


 音もなく背後に出現したグレイシスの言葉を、サイトスはにべもなく突っぱねた。

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