第6話 襲来! 第一王子様

「私は一体、前世でどんな悪いことをしたのかしら」


 丁寧に髪を梳られ、淡く化粧を施され、新しいドレスを着せられて。サイトスの手によって美貌を磨かれれば磨かれるほど、比例してブリジットの表情は翳っていく。


「あの流れだと、普通はお姉様に会いに来ると思うじゃない? なのにどうして、私なんかを指名するの? くっ、これだから高い地位を持つクズは……! 私と結婚したって、伯爵家は手に入らないと言っても通じないでしょうし……!!」


 先日初登城した際は、まんまと社交界デビューが先延ばしになったため、帰りの馬車の中でブリジットは浮かれていた。気絶したフリはもうよろしいのですか、とは言わず、サイトスは適当に相手をしていた。ナビゲーター役である彼は、エルハルト・ルートがどう進行するかを知っているからである。


「ご心配なく、お嬢様。エルハルト殿下は、あなたの可憐さに興味を示しているだけです」

「扱いやすいの言い換えよね。分かっているわ。分かっているからこそ、ああ、どうしよう……」

「大丈夫ですよ。繰り返しますが、攻略対象キャラたちは、どなたも心からあなたを愛してくださる方ですので」


 それに、とサイトスは付け加えた。


「前世のあなたは悪いことなど何もしておりません。さあ、できました。あまり殿下をお待たせすると、後が怖いですよ」

「……ええ、そうよね。仕方がないわ。弱者には従う以外の方法はないのだもの……」


 目先の恐怖に頭が一杯のブリジットは生返事をすると、不安そうにつぶやいた。


「サイトス、側に控えていてくれるのよね」

「もちろん。何かあればお呼びください。万一のことがあれば、相手が誰だろうと、このサイトスが仕留めて差し上げます」


 笑顔で応じたサイトスに先導され、ブリジットは一階の広間で待っていたエルハルトとの対面を果たした。


「ご機嫌よう、エルハルト様。遠路はるばる、ようこそいらっしゃいました」


 さっきまでクズ呼ばわりしていた相手であるが、怒らせるわけにはいかない。結果として選択された控えめな微笑みは、エルハルトのハートにクリーンヒットしたようである。仏頂面がわずかに綻んだ。


「……いや。来た甲斐があった。お前は本当に愛らしいな、ブリジット。女神イルファリアよ、この出会いに感謝を……」


 聖句まで唱え始めた主の喜びにつられたように、お付きのセイも嬉しそうにしている。腹黒め、どうせ殿下のことだって陰で馬鹿にしているくせに、騙されないんだから……という思いを押し殺し、ブリジットはいかにも無邪気な声で提案した。


「まあ、私ごときを見た程度で、そこまで喜んでくださるなんて……なら、お姉様にお会いいただければ、もーっと楽しい気分になれましてよ! 元々、殿下を誘ったのはお姉様ですし」

「必要ない。俺はお前に会いに来たのだ」


 ばっさり切り捨てられた瞬間、ブリジットの顔に走った怯えを見て取ったエルハルトが気まずそうにする。


「……迷惑だったか」

「と、とんでもありません」


 そう言うしかないじゃない、と口の中でブリジットはつぶやいたが、エルハルトの耳に届くことはなかった。


「ならよかった。さて、では……そうだな、庭の案内でもしてもらおうか。ストラクス伯爵家の庭は、とても見事だと聞いている」

「ええ、それがよろしいでしょう。ささ、殿下、ブリジット様、どうぞこちらへ……」


 エルハルト・ルートのセイは、不器用な主の恋を心から応援している。無難な選択にうなずくと、扉を開けてエルハルト、そしておずおずと近付いてきたブリジットを外へ出す。美しく整えられた緑の垣根と花々が作るアーチを潜り、王子と令嬢は散策を始めた。

 サイトスも一応ついて出たが、エルハルトが連れてきた護衛であるセイがあたりに目を配りつつも、二人の邪魔にならないように少し距離を置いている状態だ。臣下の執事がべったりしているわけにもいくまい、という態で、サイトスはセイよりさらに距離を取った。気付いたブリジットが死にそうな顔をしたが、心を鬼にして無視する。


「では、参りましょうか、グレイシス様」

「ええ」


 ひょっこり顔を出したのは、訪ねてきたエルハルトを喜々として部屋に招こうとし、「妹君に会いに来たのだ」とすげなく突き放されてヒステリックにわめきながら去ったはずのグレイシスだった。取り巻きたちも解散させ、一人になった彼女は、サイトスの陰に隠れるようにしながらエルハルトとブリジットの様子を窺う。ブリジットに合わせてゆっくり歩を進めていたエルハルトは、傍らの花に眼を留めた。


「あの赤い花はなんだ?」

「さあ、なんでしょう……私ごときには、赤い花だな、ということしか……申し訳ありません、無知で……」

「……綺麗な花だが、名は知っているか?」

「そんなに名前をお知りになりたいのですか? では、庭師を呼んできますね!」


 ぱっと顔を明るくしたブリジットは今にも駆け出さんばかりだ。エルハルトは苦笑を零す。


「お前は本当に変わった女だな。せっかく俺と二人きりだというのに、わざわざ庭師を呼び寄せようとするとは」


 変わった女。面白い女に引き続き、女性の若さや美貌や地位や財力とは無関係に与えられる、最強の称号だ。ブリジットはさっと顔色を変えた。


「そ、そんなことはありません。私なんて全然面白くありませんし、ただ、あ……あなたが怖いだけで……」

「怖い?」


 うっかり漏らした単語を拾われ、ブリジットは華奢な肩をぎゅっと縮こまらせた。


「だって……、そ、その……もしも、クズ、いえ、あなたが何かなさろうとしたら、私……」


 武芸に通じたエルハルトは、生来の恵まれた体躯を訓練で鍛え上げている。ブリジットが警戒しているのは主に直接的な暴力だとサイトスには分かったが、乙女ゲーム世界の住人らしい解釈で捉えたエルハルトは軽い笑い声を上げた。


「さすがの箱入りだな! 嫁入り前の身だからと、警戒しているのか」


 ひい、とブリジットが喉を鳴らした。機嫌を損ねた、殴られる、と思ったのだろうが、彼女を見下ろすエルハルトの瞳にはどこか切ない光があった。


「純真な娘だ。俺の母もあなたのように、可憐な方だった……初めてだ、お前のような女は」


 ブリジットが絶望の表情を浮かべた。早くに母を亡くした男に母と重ねられるのは、「変わった女」「面白い女」の上を行く無敵の称号である。しかも「初めての女」まで同時取得。最早エルハルトを攻略したも同然であるが、彼を単なる母親思いではなく重度のマザコンだと信じてやまないブリジットにとっては赤ちゃんプレイを強要されたも同然だった。


「大丈夫ですよ、お嬢様。その方は単にお母様の面影を追っているだけですので」


 ブリジットの心境もエルハルトがクズではないことも理解しているサイトスは、取り越し苦労だと請け合う。ただし、エルハルトの資質にも不安がないわけではなかった。


「それにしても、あまりにもチョロすぎないですか? あの王子」

「だって、攻略難易度Fですもの」

「あのチョロさで未来の王になれるんですか? なったとしても、やっていけるんですか?」

「攻略難易度Fですもの。大丈夫よ、ブリジット以外にはちゃんとしてるから」


 ゲームの設定上、太鼓判を捺してくれるグレイシスを筆頭に、エルハルトは次代の王として大勢の女性たちに言い寄られてきているはずなのだ。言い寄られすぎてスレていない女性が新鮮だ、という言い訳は立つにせよ、好感度の上がり方がおかしいとサイトスは不安を隠せない。


「わたくしとしては、ちゃんとしていないほうがいいのだけれど……いいえ、それこそ素人考えというものね」


 浅はかに過ぎると、グレイシスは自主的に考えを改める。


「異様に好感度が上がりやすい男なんて、詐欺師か頭がおかしいの二択ですもの。第一王子のパーソナリティを考えると、頭がおかしい、が王道の組み合わせね。一見不器用なだけの男と積み重ねてきた温かな日々が、ある日突然牙を剥く……信じていた恋人が怪物だったと知るヒロインの衝撃ときたらもう……!」

「行きますよグレイシス様」


 サイトスは最早、グレイシスがプロの悪役令嬢であることは疑っていない。いないが、隙あらばプロの矜持が許す範囲で己の悪趣味を満たそうと画策することも理解している。迂闊に目を離すわけにはいかず、特にブリジットが攻略対象と過ごす際には、可能な限りグレイシスと共に見張ることに決めていたのだ。ブリジットたちが生け垣の向こうへ完全に隠れてしまいかけていることに気付いたサイトスは、素っ気なくグレイシスを促した。


 幸い、サイトスの不安は杞憂に終わった。グレイシスはエルハルトとブリジットが会話を交わすたびに妄想逞しくし、サイトスの胸を乱したが、妄想を現実化させようとはしなかった。何より、エルハルトが想定より遥かにチョロかった。

 ブリジット本人も、ぐんぐん上がっていく好感度に危機感を強めていた。暴力を受ける可能性を顧みず、空気を読まない発言を何度繰り返しても、エルハルトは全てを世間知らずで片付けてしまう。そこが可愛い、と言わんばかりに。


「あの……お姉様! 呼びましょう!!」


 まだ会うのは二回目だというのに、下手をするとこのままプロポーズされそうだ。次代の王からの求婚を無下にすれば、一族郎党死を賜るかもしれない。そんな妄想に取り憑かれたブリジットは、脈絡もなくグレイシスに助けを求めた。


「姉のことがそんなに大事か」


 エルハルトはまたもブリジット、というより、このゲームのヒロインに対して都合の良い解釈をした。整いすぎて冷たい顔を、愛おしさが満たしていく。


「彼女は、お前の悪口ばかり言っていたのに……優しいな」

「サ……サイトス! サイトスー!!」


 完全にパニックになったブリジットが縋るように執事を呼ぶ。それまでも時折オロオロしていたセイが慌てて止めに入ってきた。


「エ、エルハルト殿下! 恐れながら、ブリジットお嬢様は、本当に世間ずれされておらず……殿下のお気持ちの全てを、すぐに受け止めていただくのは難しいかと……」

「む、そうか。……いかんな。楽しくて、つい長居してしまった」


 セイの進言を聞き入れ、エルハルトは性急さを謝罪した。


「朴念仁ですまん。これに懲りず、また会ってくれるとありがたい。ではな、ブリジット」

「え、ええ、えええ……」


 ブリジットの喉からは唸り声の親戚しか出てこなかったが、それさえも恋する男の目には可憐さの発露としてしか映っていないようだ。名残惜しそうにしながら、エルハルトはセイを連れて去った。

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