第5話 ルート開始の合図と言えば


「ブリジットちゃんだっけ、怯えてる? 怖くないよー、大丈夫大丈夫! 兄上、もうちょっと顔の力抜いてよ。ブリジットちゃんがかわいそうじゃんー」


 玉座の横にだらしなく立っていた金髪の青年が、兄の肩を掴んで軽く揺さぶりながらふざけた声を出した。即座に腕を掴まれ、捻られてもまだ笑っている彼が第二王子のレヴィンだ。ムードメーカーの助け船によって場の空気は和んだが、ブリジットの震えはかえってひどくなった。クズが増えたとしか思っていないんだろうなと、サイトスは暗澹たる気持ちになった。


「あらあら、だらしがないわねぇ、我が妹は」


 これみよがしにグレイシスが声を上げたかと思いきや、彼女はつかつかと進み出てブリジットに寄り添った。慣例破りのしぐさながら、有力な王妃候補であり、王宮内への根回しを入念に行ってきた彼女を咎める者はいない。グレイシス様はお優しい、なんて妹想いなのでしょうと、取り巻きたちも声を揃えてアピールに余念がない。急ごしらえの雇われのはずだが、さすがの品質だな……などとサイトスの気が逸れた隙に事件は起こった。


「お父様に恥をかかせるつもり? ほら、しっかりご挨拶をしなさい」

「は、はい。お目にかかれて光栄です、エルハルト王子殿下。わ、私……は、ブリジット・アルケー、あッ!?」


 グレイシスの手を借り、なんとかエルハルトの目の前まで辿り着いたブリジットの体がぐらっと揺れた。グレイシスが妹の手を握って強く引くと同時に、彼女のドレスの裾を踏みつけたのだ。サイトスに多少の稽古を付けてもらっているとはいえ、緊張しきったブリジットのバランスは保たなかった。


「あーら、鈍くさい子ねぇ!」


 響き渡るグレイシスの嘲笑。前のめりに転びかけたブリジットを、咄嗟に立ち上がったエルハルトが抱き留めた。長身で体格のいい彼の腕の中に、華奢な少女がすっぽりはまった様は絵に描いたような乙女ゲームのワンシーン。スチル待ったなしの光景を前に、グレイシスは高々と笑う。


「本当に申し訳ありませんわぁ、エルハルト様……礼儀を重んじるあなたに対して、なんと無礼な子でしょう。これではとても、社交界デビューなんてさせられませんわねぇ?」


 なんという見え透いたフラグ。感動さえ覚えながら、サイトスはグレイシスのプロ根性に感じ入っていた。


「……! ええ、本当ですわ、お姉様!! 私ったら、なんてだめだめな子でしょう!!」


 ところが青ざめて固まっていたブリジットは、グレイシスの言葉に弾かれたように顔を上げた。同時にエルハルトの手を振りほどき、ささっと数歩下がって距離を取る。


「もう本当に私ってば歩くトラブル、どじっこ代表、何をやってもダメダメで! 王宮に辿り着けたの自体、奇跡のようなものですし!! よりによって、ク……エルハルト殿下の手をわずらわせるなんて、こんな何の取り柄もない小娘が社交界デビューなんてとんでもありませんわ!! 王家の皆様に迷惑をかけること間違いなし!!」


 いかに自分がこの場にそぐわないか、ブリジットはここぞとばかりに大声でアピールし始めた。


「そういうわけですので失礼いたします、エルハルト殿下! 私は一生領地に引きこもって暮らしますので、全てはお姉様にお任せします!! 帰りましょう、サイトス……!!」

「待て」


 どさくさに紛れてグレイシスに事態の収拾を押し付けようとした寸前、エルハルトが彼女を呼び止めた。


「俺のような朴念仁から見ても、あなたはストラクス伯爵家令嬢にして、天使のごとく美しいが……それなのに、たかが転びかけた程度で、そこまで自身を卑下するのか」


 凍り付いていた瞳を春風が吹き抜けるのをサイトスは見た。ふ、と吐息だけで笑ったエルハルトの唇から、待ちに待った言葉が飛び出す。


「……面白い女だな」


 ひっ、とブリジットが潰れた悲鳴を上げた。エルハルト攻略ルート開始の合図を聞いてしまったのだから無理もないが、話はそれだけで終わらなかった。


「ふーん。兄上に気に入られるなんてねえ。君、おとなしそうな顔して、結構面白いじゃん。僕も興味出ちゃったなー」


 レヴィンだ。無表情と変わらぬ作り笑顔が崩れ、その瞳には本物の好奇心が宿っている。


「ご兄弟が揃って、同じ女性に興味を示されるとは……」

「珍しいこともあるもんだ。俺も興味が出てきたぜ」


 王子たちを警護していた温和な騎士、セイは意外そうな表情になり、彼の親友であり豪放磊落を絵に描いたようなアルバートは不敵に笑った。


「……まあ、腐ってもストラクス伯爵の娘だ。無下にはできんが……グレイシスより、注視の必要がありそうだな」


 宰相のロウアーは面白くなさそうな様子だが、それゆえにブリジットを無視できないようだ。どこからか一陣の冷たい風が謁見の間の中を吹き抜けていったと思ったら、ふふ、と楽しげな少年の声が響き、すぐに消えた。現時点では姿の見えない隠しキャラ、スノーブルーの登場フラグまで立ったようだ。


「く……なんてこと! まさか、こんな展開になるなんて……!!」


 グレイシスは大仰に悔しがっているが、ちらりとこちらに視線をくれた瞬間、サイトスは無言で彼女に目礼した。プロの仕事に対する敬意を表したのだ。一方ブリジットは、地団駄を踏まんばかりの悔しさを必死に隠そうとしている。


「失敗したわ……お姉様のすることにうまく乗っかっていけば、社交界デビューフラグを回避できると思っていたのに……!!」

「ふ、ふ……さすが難易度Fですね。よほどのことがない限り、何かイベントが起これば好感度はどんどん上昇していくのです……! これでいいのかと思うぐらいに……!!」


 仮にもブリジットを任せる相手だ。攻略対象キャラたちのあまりのチョロさに不安を覚えないでもないが、好かれないよりはいいはず。小さくガッツポーズを決めているサイトスに、ブリジットは駆け寄ってきた。


「ど、どうしよう、サイトス……クズ王子一号二号に眼を付けられてしまったわ。このままじゃ飲酒、暴力、赤ちゃんプレイ、人間狩り……!! ……ああっ」


 突然の暴挙と暴言を咎める暇もなく、不意に目を閉じたブリジットの体が再びバランスを失う。倒れ込んできた彼女をサイトスは慌てて抱き留め、エルハルトも駆け寄ってくる。


「ブリジット、大丈夫か!?」

「だ、大丈夫です、殿下。ちょっと……その、そうだ、男性慣れされていないのですよ、うちのお嬢様は。ですから、殿下のような素敵な殿方を前にすると、緊張されてしまうようで……」

「……なんと」


 咄嗟のサイトスの機転に、エルハルトはまんまと引っかかった。春風ヒロインに出会い、雪解けを迎えた瞳は、少年めいて素朴な好意を隠せない。


「そういえば、修道院から戻ったばかりだという話だったな。世間ずれしていない、ということか……なんと可憐な」

「うっ!? うーん、うーん、やっぱり世間知らずが好きなクズ……」

「どうした?」

「なんでもありません。本当に本当になんでもありません」


 不穏なうめき声を発した主の口元をそっと手で覆って誤魔化すと、サイトスは緊張しながら次の流れに必要な台詞を発した。


「ですので、少し休ませていただければと思います。舞踏会には、必ず出席いたしますので」

「いや、それはならん」


 エルハルトが言下に断った瞬間、ブリジットはちょっと嬉しそうにしたが、話はそこで終わらなかった。


「安心しろ。社交界デビュー自体は認めるが、男と少し話した程度で気を失うような、か弱い女性をいきなり舞踏会に放り込むのはまずいだろう。もう少し、慣らしてから再登城してもらったほうがよさそうだ。グレイシスも、それでいいな? 妹が突然転ぶようなことがなくなった時に、改めて来てもらうということで」


 対ブリジットへの好感度上昇率がバグっていても、エルハルトは次代の王と目される男である。グレイシスの妨害は明らかだと理解しながらも、相手は有力貴族の子女。面と向かって恥をかかせたりはしなかった。おかげさまでサイトスの彼への好感度も持ち直した。


「……ええ、構いませんわ」

「それは良かった。詫びと言ってはなんだが、今度ストラクス家を訪ねてもいいだろうか」

「えっ、ええ! はい、もちろん!! 光栄ですわ、エルハルト様っ!!」


 これまで何度も来訪を願っては、王族が軽々しく一人の臣下の家を訪れることはできないと断られてきた設定のグレイシスである。降って湧いた幸運に見合ったはしゃいだ顔を作り、気を失っているはずのブリジットもにこにこしているが、サイトスは知っている。これでまた、一つのフラグが立ったことを。

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