第一章 エルハルト・ルート

第4話 初登城の日

 ブリジットが修道院から戻って三日が経過。本日はファールン王国にて行われる舞踏会に赴き、国王陛下及び王族の皆様に社交界デビューの挨拶をする日である。

 攻略対象キャラたちとの初顔合わせという、乙女ゲーム最初の重要なイベントが起こる日。ブリジットが本来のヒロインであれば、期待と不安に胸震わせながらも、出発直前で不安が強くなり、頼りになる執事にすがる場面だ。どうしても行かないとだめ? と。


「どうしても行かないとだめ?」

「だめに決まっているでしょう」


 本来のヒロインと同じ台詞ながら、ブリジットがそれを発した理由は明らかに異なっている。すげなく却下したサイトスに、一際美しく着飾らされた彼女は食い下がった。


「まだ全ての確認は終わっていないけれど、ストラクス伯爵家の有する財産は莫大よ。領地は広く、豊かで、気候にも恵まれている。農作物の出来はいいし、領民からの支持も厚い。保養地としても一定の評価を得ているし、近隣の貴族との関係も良好。男になんか頼らなくても、一生安楽に暮らしていけるわ」

「よくお調べですが、だめです!」


 ストラクス伯爵家に戻って以来、ブリジットが何をしていたかと言えば、生家が持てる財産の確認だった。娘に甘い父は理由も聞かずに領地の状況を話し、財産目録を見せてくれた。それだけでは飽き足らず、裏付けが必要だとブリジットはサイトスと共に領地内を巡り、父の言葉は正しいとの確信を得たのであった。貴族の娘としては立派な態度かもしれないが、愛されヒロインのすべきことではない。


「……あなたには、あなただけを愛し、どんな悲しみからも守ってくれる相手が必要なんです。そのためにあなたは、この世界に転生をしたのです。どうかご理解を」

「そんなの、サイトスがいるじゃない」


 愛され転生に気付いて以来、一貫してブリジットはサイトスへの信頼を語る。ほかの連中への視線は歪みに歪んでいるというのに、彼に向けられる視線だけは切実なほどに真っ直ぐだ。


「……私じゃだめです。私じゃ、あなたを守り通せない」


 繰り返されてきた問答にも、サイトスの答えは変わらない。


「大丈夫よ。地位と財産と権力は盤石。物理的な攻撃にだって、あなたがいれば対応できるわ。ねえ、だから、社交界デビューなんてやめて、今日は一日稽古の日にしましょう……?」


 お嬢様の守り役として、サイトスは一通り以上の武芸を身に着けている設定なのだ。慎重派のブリジットは彼に何事かあった場合を想定し、自身も鍛えてほしいと懇願。護身術を嗜むのは悪いことではなかろうと流され、教え始めたサイトスだったが、そこまで流されては彼の目的を達成できない。


「とにかく! 行きますよ。でないと……そうだ。グレイシス様がどなたかと結婚され、伯爵家の実権を握ってしまえば、あなたも私も追い出されてしまうかもしれないですし!!」

「問題ないわ」


 想定済みだとブリジットは説明する。


「この世界は本当にヒロインに甘いもの。ここ数日でお姉様にも嫌味を言われたり、足を引っかける程度の意地悪はされたけど、周りはみんな私の味方をしてくれた。この調子なら、お姉様がどなたかと結婚された後も状況は同じよ。いいえ、あの方がお嫁に行かれて屋敷を出られるなら、意地悪に耐える必要すらないんだもの!」


 そもそも、耐える必要もない、甘っちょろい意地悪だと得意げに語るブリジットを無理矢理馬車に押し込み、サイトスは彼女と共に王城へ向かった。


※※※


 ファールン王国の王城は緩やかな丘の上にある。がたごと揺れる馬車の中で、ブリジットはなおも嫌だ帰ると言い続けたが、サイトスは頑として譲らなかった。


「忙しい王族の皆様に、わざわざ時間を取っていただいているんです。直前で拒否などしたら、不敬と取られかねないですよ?」

「……そうね。下の者の反抗を絶対に許さないのが、上に立つ者よね……」


 悲しげに諦めた彼女は、沈み始めた夕陽を浴びながら巨大な城門を潜る頃には腹を括っていた。華麗なファサードや礼儀正しい兵士たちを、感動の瞳で眺めさえしていた。


「いかがです? この国の象徴たる王城の美しさ、兵士たちの忠誠心の高さ……素晴らしいでしょう。エルハルト殿下とご結婚なされば、これらは全て王妃たるあなたのものになるのです。お嬢様は地位と財産、お好きですよね?」

「ええ、好きよ」


 てらいなく答えたブリジットは嬉しそうに続けた。


「私たちの安楽な生活の保障のためにも、国の基盤がしっかりしているのは望ましいこと。外憂への対応はもちろん、万一内乱などが起こっても、この調子ならうまく対応してくれそうね。ひとまず安心したわ」


 領地内の状況を確認していた際に王家の評判も聞いてはいたが、自分の眼で確かめられたブリジットは満足そうである。サイトスはソウデスカ、と気のない相槌を打つと、豪華なロビーの手前に設えられた受付に招待状を提出し、ストラクス伯爵家の次女が到着した旨を告げた。


「これはこれは、ようこそいらっしゃいました。妹君は本日が初めての登城でしたよね。姉君は、朝早くからいらしておりますよ」


 受付係をしている中年メイドの愛想の良い微笑みに、わずかな当惑が混じった。


「しかし、あなたがブリジット嬢……姉君のおっしゃりようからは、もっと……いえ、失礼」


 申し訳なさそうに咳払いをした彼女に見送られ、二階の大広間に続く階段を上りながら、ブリジットは感嘆の息を吐く。


「さすがお姉様、頼りになるわ。事前に私の評判を落としてくださっているのね!」

「……ええ、そこは元々のゲームどおりですね」


 グレイシスはブリジットより二年先に社交界デビューをしている。国内でも有数の地位にあるストラクス伯爵家の威光を笠に着て、結婚相手の吟味に余念がない。

 特に狙っているのが未来の国王である第一王子エルハルト、次席の第二王子レヴィン。平行して、最大のライバルになるに違いないブリジットの良くない噂を流し、事前に評判を落としておこうと画策しているのだ。ただしなんの裏付けもない、ただの悪口を吹聴しているだけなので、特に容姿に関するものは本物と出会ってしまえば意味を成さなくなる。……というのが「ふわふわ姫は愛されまくる」でのグレイシスの立ち位置だった。


「私のお嬢様は世界一可愛いからな! ただしグレイシス様が難易度Fに合わせてくれていなかった場合、登城すらできなかった可能性も高いが……」

「どうしたの? サイトス」

「なんでもありません。さあ、こちらです」


 舞踏会が始まる前に、本日が社交界デビューとなる貴族の子女は王族に挨拶をし、許しを得るのがファールンの習わしだ。舞踏会の準備をしている大広間の前を通りすぎ、謁見の間に入る寸前で横から話しかけてきた者がいた。


「あーら、ブリジット。お早いお着きだこと」


 もちろんグレイシスである。取り巻きの侍女たちを侍らせ、居丈高に嫌味を飛ばしてくる姉に、ブリジットはにっこり笑いかけた。


「そんなことはありませんわ、お姉様。朝早くから私のことを、いろいろな方たちにお話ししてくださっていたようで……本当にありがとうございます」


 嫌味返しに聞こえるかもしれないが、ゲーム本来のブリジットであれば純粋な本音である。現在のブリジットにとっても本音には違いない。それはグレイシスも理解していようが、彼女はプロの悪役令嬢だ。


「ふんッ、相変わらずのいい子ぶりっこ! 虫唾が走るわ。お前になど絶対に、麗しの王子様たちは渡さないからね!!」


 難易度と設定に合わせた捨て台詞を吐いたグレイシスがくいっと顎をしゃくる。歩き出した彼女を追って、ブリジットは斜め後ろに控えたサイトスと共に謁見の間の入り口に立った。長々と敷かれた深紅の絨毯が続く先には、王威を示す豪奢な玉座。そこに腰掛けた黒髪の美青年の存在感が、さらなる圧を加えている。

 ファールン王国第一王子エルハルト。父王はまだ健在ながら、昨今は体調が思わしくないこともあり、よほどの重大事でない限りは跡継ぎ筆頭である彼が国王代理を務めている。


「お前がグレイシスの妹か」


 ちらりとブリジットを一瞥した濃紺の瞳は冷め切っており、義務以外の感情はない。ストラクス伯爵の娘が相手でなければ、このような雑務に関わりたくなかったとでも言いたげだ。次代の王として厳しく教育されてきた彼は、代替わりが迫ってきた事実によって生来の完璧主義に拍車がかかり、ひどく気難しくなっているともっぱらの評判だった。

 その前まで歩いていかねばならないのだが、近付くほど強くなる冷気に、ブリジットの体が小さく震え出す。理由が分かっているサイトスの胸は痛んだが、一人前のレディとして一人で挨拶をせねばならぬ決まり上、壁際に佇んで離れていく背を見守ることしかできない。

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