第3話
「スンッ……」
「落ち着いたか?」
火の手入れをしながらそう問うてくるデゼルに、リリアナは赤くなった目元を毛布で隠すようにして頷いた。
思わず泣いてしまった夕飯の時間。ただただ、泣きながら食べ続け、食べながら泣き続けて、一通り食べきった所で涙と食欲はどうにか収まった。
今は、食事に使った鍋やスプーンを砂の海の砂で洗って、砂粒を水で流したデゼルが何やら別の準備をしているのを眺めているところ。
一頻り泣いたお陰だろうか、夕焼けの砂の海を見た時のような混乱は既に彼女の中で小さくなっていた。同時に若干の疲労も重なって少しうとうとしているのだが。
何をするでもなく火を眺めているリリアナ。そこに、マグカップが一つ差し出された。
「お茶」
「あ、りがと……」
「それ飲んだら、今日は寝ちまえよ。あの寝台使って良いからな」
「デゼルは、どうするの?」
「俺は、床でも寝られる。気にすんな」
カップを呷るデゼル。その内心の続きとしては、見張りや船の整備などもあるため夜間は殆ど休めないというのがあった。寧ろ見晴らしのいい昼間の方が、ゆっくり休める。
そんな彼の内心など知る由もないリリアナは、カップに口を付けた。
茶葉の香りもさることながら、ほのかな甘みも感じられる温かなお茶。その甘みは砂糖のモノではなく、少し独特だった。
「これ……ハチミツ?」
「ああ。瓶詰にしておけば、悪くもならないからな」
「そっか……」
因みに、傷まないハチミツというのは純粋な物に限る。混ぜ物のハチミツは、味が安定しているがその分時間経過で傷んでしまう。
甘く温かいお茶と、泣いたことによって体力を使ったせいかリリアナの頭が不規則にゆらゆらと揺れる。程なくして眠ってしまうのは誰の目にも明らかだった。
カップを甲板において、デゼルは立ち上がると静かにリリアナの側へと回る。
ぼんやりと見上げてくる少女の傍らに膝をついてカップを回収して甲板に置き、そして流れるようにその体を横抱きに抱え上げる。
毛布で包まれたリリアナの姿は、まるでお
穏やかに眠る少女の顔を一瞬眺め、そのままデゼルは船室へと降りると彼女を寝台へと横たえて薄手の布団を掛ける。
外ほどではなくとも、火の一つも焚いていない船内は寒い。暖かくしていなければ、慣れない者はその寒暖差に直ぐにでも体調を崩してしまう事だろう。
準備を終えたデゼルは、最後にリリアナの左の目元に残った涙の雫を親指拭った。
それ以上は何もする事が無く、彼は大人しく甲板へと戻る。考えるのは、彼女の境遇だ。
「……」
冷たい風の吹く中で見上げる星空は、周囲の光源が殆どない事も相まって息を呑むほどに壮大で、荘厳だ。もっとも、見上げた彼からすれば見慣れてしまったものだが。
少し火の小さくなった炉の側へと腰を下ろし、燃料を少し足してその勢いが強くなった所で、デゼルは一つ息を吐き出した。
少女の、リリアナ=ガロファーノの浮かべた表情を彼は知っている。
驚愕、困惑、悲嘆――――そして、恐怖。
年の割には、経験の豊富なデゼルをして、そんな表情を見た回数はそれほど多くは無い。
直近としては、数年前。とあるオアシスにおいて、一人の少年がその表情を浮かべていた。
たった一人。周りには誰も居ないたった一人となった少年。
そこまで思い返して、成程とカップの中身を啜りながらデゼルは頷く。
「一人、か……」
それは、とても恐ろしい事なのだろう。
*
全てが一瞬だった訳じゃない
時間があれば何かを成せる訳じゃない
世界は決して優しくは無いのだから
*
砂の海を快速で進む帆船。風を上手く捉える事で、一日で大規模な移動が可能となる。
「本当に、砂の上を船が走ってる……」
「寧ろ、この砂の海を進む手段としちゃ、一番に挙がる手段なんだがな……、まあ、良いか」
肌を焼かないように白い外套を着せられて目を輝かせるリリアナに、デゼルは肩を竦めると船の進行方向へと目を向ける。
遮るものの無い砂の海と言えども、だからと言って航行する事が安心安全かと問われれば、それは否。
最たる例を挙げるなら、砂嵐だろうか。大規模なものになれば、船すらも容易く呑み込み持ち上げて、洗濯機に放り込まれた羽虫のようにバラバラにされてしまう事だろう。
だが、砂嵐の場合は遠目からでも確認できる。舵を切れば回避も可能だ。
問題なのは、遠目から確認できない危険というものが砂の海には存在するという事。
「……ん?」
進行方向より2時の方向。右手を庇に目を細めるデゼルは、ソレが何なのかを確認して舵を固定した。
「なあ、リリアナ」
「なに?」
「お前って、目は良いか?」
「え?一応、矯正はしてないけど……何で?」
「面白いものが見れそうだから、な」
首を傾げるリリアナだが、デゼルはそれ以上の説明はせず、何を思ったのか帆の風を抜いていくではないか。
完全に抜けたところで調整用に帆のそれぞれの角に設けられたロープを手繰ってマストへと絞って括りつけていく。
停泊するつもりではないらしく錨は下ろさなかったが、徐に甲板と一体化している右舷側のアウトリガーの上へと腰を下ろしてリリアナを手招きする。
「フードは被っておけよ。日焼けは痛いぞ」
「あ、うん……何か始まるの?」
「始まる、というか来る、だな」
「来る?」
何が?とリリアナは首を傾げる。が、袖を引けども彼が答えをくれる様子はない。
仕方なく、リリアナは待つことにした。ついでに、昼間の砂の海というものも興味があった。
地平線の彼方まで砂だらけ。空を見上げれば、砂の黄金との対比のように綺麗な吹き抜けるような青空が広がり続け、雲一つも確認できない。
そういえば、とリリアナは先ほどデゼルが見ていた方向へと目を向ける。そちらに、答えがあると思ったからだ。
周囲と変わらない砂、砂、砂の風景たち。だが、ある光景に彼女の視線が止まった。
「……間欠泉?」
「見つけたか?ま、残念ながら間欠泉じゃない。この辺りには砂ばっかりでな。ただ、回遊ルートに当たったらしい」
――――回遊?リリアナがそう尋ねる前に、斜め前方で勢いよく砂が吹き上がった。
目を見開く彼女を置いて、船の側に巨大な影が浮上してくる。
赤茶けたごつごつした岩の様な皮膚。息継ぎをするために設けられた上部の噴気孔。
何より、20メトラはありそうな巨体。
「砂鯨だ。この砂の海を回遊する生き物でな。この船の素材にもなってる」
「砂、鯨……」
「流砂の中を泳げるだけの強靭な筋肉に加えて、その皮膚は生半可な弓矢や槍が通じない程度には分厚く、硬い。骨も筋肉に負けないように堅牢で死んだ後でも確りと処理をすれば船や家の建材にも使える。皮膚に関しても、鞣せばそれだけで防具になる。それだけじゃない。こいつらは体内に油を溜めててな?その油も、火の燃料になるんだ。肉も、勿論食える。一頭仕留めれば、暫くは食っていける。正に捨てるところが無いな」
ペラペラとデゼルの口が回る間にも、砂鯨の群れは船の側を通っていく。彼らはその巨体に反して大人しい性質を持っている為、手を出されなければ自分たちから自発的に攻撃行動に移る事は殆どなかった。
そして、リリアナの目は砂鯨たちを捉えて離さない。
彼女の記憶にある大海を行く史上最大の哺乳類の姿がダブっていたからだ。いや、鯨という名前からしてニアピンどころの話ではなかったが。
「この子たちは……数が少ないの?」
「いいや?この巨体に加えて、皮膚の硬さだからな。天敵は殆ど居ない。人が狩ろうにもノウハウが無ければ一方的に全滅だろうさ」
「そっか……」
「言っとくが、こいつらの気まぐれ次第でこの船も木っ端みじんにされるからな?ある程度は耐えられるが……ま、手を出さないに限る」
「鯨たちは、何を食べるの?砂、ばっかりだよね?」
「回遊中は殆ど絶食。オアシスの近くに来た時に、大量に食事をとって、それを全部脂肪にして蓄えるんだ。で、その脂肪を利用して旅をする。一時的にでも定住するのは子育ての時ぐらいだ」
砂漠の砂は無菌と言われるが、砂の海の流砂もまた無菌だ。大抵の菌は、日光消毒されてしまう。だからこそ、砂で食器を洗う、何て事も出来た。
そんな過酷な環境を生きる砂鯨が回遊する理由は、未だに解明されていない。一説には、一ヵ所に留まり続けるとその周辺の食料を食い尽くしてしまうから、だとか。
暫くの間船の周囲に留まっていた砂鯨の群れだったが、やがてその巨体を沈ませて砂の海へと潜行していった。
彼らが完全に居なくなったことを確認して、デゼルは立ち上がる。
「少しは、気が紛れたか?」
「え?」
「お前が何考えてるか知らねぇが、後2、3日もすればオアシスに着く。無理強いはしねぇけど、少しは頭をサッパリさせておいた方が良いだろ?」
「オアシス?……何で分かるの?」
「アレ見てみろ」
デゼルが指さす先。かなり遠いが、真っ青な空にほんの少しだが白い雲がポツンと浮かんでいた。
「雲の流れてくる方向には、オアシスがある。この風なら、さっき言った程度の日数だろうさ」
「……オアシスって、何かあるの?」
「んー……規模によるな。ま、行ってからのお楽しみさ」
それだけを言い残して、デゼルは帆を広げに向かってしまった。程なくして、先程と同じように多くの風を捉えた帆船は走り出す。
砂混じりの風。フードを強めに握って被るリリアナは、ゆったりと船の進路が変わっていくのを眺めながら、これからの事を考えていた。
泣いて、一晩眠ったお陰で頭はすっきりした。未だにショックは残っているが、それでもこれからの事を考えられる程度には余裕も出てきた。
デゼルは、放り出したりはしないだろう。まだ二日の付き合いではあるが、リリアナは彼をそう判断していた。だが、その好意に甘え居続ける事もまた違うのではないか、と囁く冷静な自分も居た。
リリアナ=ガロファーノは、割と真面目な性根をしている。それこそ、一方的に施され続ける事に抵抗を覚える程度には。
だが、自分にいったい何ができるのだろうか。考えても、リリアナには分からない。そもそも、この世界における常識もよく分からないというのが実情なのだから。
「……」
チラリと振り返れば、舵を微調整しながら進路を確認するデゼルが居る。彼の言葉が正しいのならば、これから数日後には人が居るであろう場所に着くのだろう。
それまでが、勝負だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます