本編
第1話 迷子の魔王を探しています。
ふわわ、と漏れるのは大きなあくび。
しばらく目を瞑ったまま、目を開けると同時に立ち上がる。
「ちょっくら出かけてくるわ」
「陛下、どちらへ」
平坦な声。側近クロツィオの鋭い視線が射るように俺に向かってくる。
「あー、……散歩」
「以前も散歩に出かけて、ひと月ほど戻ってきませんでしたが」
「そうだったか?」
すっとぼけると、さらに鋭い視線が俺を射抜いた。
「すぐに戻ってこなければ〈迷子の魔王を探しています〉ってチラシをばらまきますからね」
低くもよく通る声に、ちらりと視線を向けると、にっこりと笑顔が返ってきた。絶対にやりますからね、と言いたげな表情に、思わず顔が引きつりそうになる。
俺は踵を返すと、背を向けたまま手を振った。
「わかったわかった。行ってくる」
「行ってらっしゃいまし」
魔王の執務室。磨かれた床に足音がよく響く。
扉を開けると、ちょうど休憩のお茶を運んできていた小さな子供が、俺の姿に気付いて瞬いた。
額の生え際に小さな角が二つのぞく。魔王城には似合わない可愛い容姿は、先々代の魔王の時から変わらない。外見年齢は4歳ほどだが、これでも俺よりはるかに長く生きている。
「よう、ルーク」
――魔王さま、どちらに?
聞いてくるのはあいつと同じ内容なのに、こっちは表情からして無邪気で可愛い。
俺は小さな頭に手を置いて軽く撫でながら、散歩、と言った。ふわふわの髪はいつまでも撫でていたくなるが。
じゃあな、と言って、そのまま適当なところに姿を飛ばした。いつもなら転移した先は大抵厨房で、何かをつまむか、城の外に浮かび、目的地を定めてから移動する。今回はすぐに森の中へと飛んだ。
先ほど、欠伸をした時に、かすかな違和感を覚えた場所。
魔王城を囲む深い森は王城の庭であり、通常、余所者が入ることはない。そこにいるのは、自然の動物か警護の魔獣のみだ。
「ん? なんだあの光」
森の上空をしばらく進めば、木々の隙間から白く淡い光が漏れていた。
地上に近づけば、キャン! と鳴く小さな魔犬がいた。魔犬を中心に半径1メートルほどの丸い円が広がり、魔法陣とすぐにわかる幾何学模様から光が立ち上っている。
「魔法陣か」
『キャン、キャン! 魔王さま、魔王さまー』
三つ首の魔犬は、それぞれがキャンキャンと鳴いて現状を訴えてくる。四つ足を懸命に動かしているが、宙に浮いており、俺に近づいて来られない。
身体は小さいが、ケルベロスの一族だ。
「召喚? お前を召喚するとは、ずいぶんと力がある者のようだな」
ふむ、と考えたのは一瞬。
「よし、俺も行ってみよう」
魔法陣の中に抵抗なく入り、三つ首の浮いた身体を抱き寄せた。抵抗なく入れた、ということは、抵抗なく出られる、ということだ。
こんなことをしでかすのは人間界の者だろう。興味が勝った。
ふわりと感じたのは、温かい風。
俺の黒い全身を足元から包み、天辺にある深紅の髪までも包んでいく。眩しさに目を細め――。
「……あら? 迷子の動物を召喚したはずですが」
空気が変わった、と思った瞬間、目の前に、白い肌に金の髪、珍しい紫の瞳の女がきょとんと瞬いていた。
なんだ、お前迷子だったのか、と魔犬を見下ろせば、違いますよう、と三つの首が横に揺れる。
女は、にっこりと笑った。
「こんにちは、わたくしはフェリシアと申します」
「その格好、聖女か」
「ふふ、貴方はまるで魔王みたいな格好ですわ」
※
「魔王さん、お茶はいかがですか?」
「いただこう」
結局、そのまま人間界の大神殿に滞在している。
大神殿といっても、都会ではなく、山深くにある秘境の神殿だ。大本山、ともいうが、いるのは大神官の爺どもが数名と、世話役の婆とその孫娘、それに聖女のみ。
最も、今は大神官どもがいないので、平和そのものだ。早う帰れ、とうるさいので、王都見物を勧めて、無料で転移までさせてやったのだ。俺様、超親切。今頃は王都観光を楽しんでいるに違いない。
「このクッキー、私が焼いたんですけど、お味はいかがですか?」
「美味い」
「よかった」
フェリシアと名乗った聖女の裾には、小さな女の子が見え隠れしていた。お前の子供か、と問えば、聖女見習いとのことだった。
小さな見習い聖女は初めて見る三つ首の魔犬から目が離せない。興味があるのか、怖いのか、先ほどからずっと1対3で見つめあっている。
「そういえば、もう一週間になりますけど、お帰りにならなくてよろしいんですの?」
召喚されたとはいえ、契約で縛られているわけではない。帰ろうと思えば、自由に帰れる。
「帰ってほしいのか」
「魔界の方も探していらっしゃるんじゃないかしら?」
「俺がいなくても魔界は回る。安心しろ」
「魔王さんは、魔界を統べていらっしゃるのでしょう?」
「魔王というのは、ハンコを押すだけの簡単な仕事だ」
少なくとも、そういう言い分だった。はっきり言おう。俺はだまされた。
「魔王の判子!」
聖女の瞳が輝いた。
「象牙で出来ていますの? 一角の角? それともドラゴンの牙? 魔石? まさか拇印?」
聖女の興味はちょっとずれていて面白い。
真面目に答えてやろうかと考えたとき、キャン、と魔犬が鳴いた。
視線を向ければ、宙にふわりと一枚の紙が舞っている。
「あらあら、何かしら」
聖女が手を伸ばし、紙を取った。
「まあ、こんなチラシが」
ふふと笑って、聖女は俺に紙を向けてそれを読み上げた。
それは人探し。
赤い髪の、赤い瞳の、赤い角の。
「〈迷子の魔王を探しています〉」
――あの野郎、本当にばらまきやがった!
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