第20話 サミエラは孤児院に行く
それからサミエラとロッコは屋台小屋を奴隷商人ジョージ・パーシグに引き渡して撤収し、一度交易所に寄って売上金を銀行に預け、副所長のジャン・バールに事の経緯を説明した。
その後、サミエラとロッコは一度別れ、サミエラは徒歩で街の教会の孤児院に向かい、ロッコは新しく仕入れた果物を積んだ荷馬車で農園への帰途についた。荷を下ろしてから再びこちらに戻ってサミエラに合流することになっている。
「おや、これは奇遇ですな。今日の商売はもうおしまいで?」
教会に向かうサミエラに声をかけてきたのは顔馴染みの常連客である老紳士だった。きちんとした燕尾服を着こなし、上等のシルクハットを身に付け、ステッキを手に持っているが足取りはしっかりしているのであくまで紳士のたしなみとして持っているのだろう。
「あら? オレンジの干し果物が好きなお爺さんね。ええ、今日の商売も無事に終わったので教会に行こうと思って」
「覚えていただけて光栄ですな。私はトーマスです。私も教会に行くところなのでご一緒してもよろしいですかな?」
「トーマスさんとおっしゃるのね。もちろん喜んで。あ、ご存じでしょうが、サミエラ・ゴールディです」
「ほっほっほ。もちろんよく存じていますとも。最近、サンファンは貴女の噂で持ちきりですからな。かく言う私も貴女の作る干しオレンジにはすっかりはまっておりましてな」
「トーマスさんはいつも干しオレンジだもんね」
「紅茶と共にいただくのにあの適度な甘味とかすかな苦味がちょうど良いのですよ。ところで、サミエラ嬢は干し果物が壊血病に効くという触れ込みで売り始めて、実際に効果があるようで最近は船乗りたちも航海前に買い込むようになっておりますが、なぜ干し果物が壊血病に効くと分かったのかお伺いしてもよろしいですかな?」
「んー、そうね、トーマスさんは航海中の船乗りの食事がどんなものかご存じかしら?」
「もちろんですとも。
「よくご存じね。壊血病は陸ではまずかからないし、近海だけで活動する船乗りもまずかからないわ。だから、壊血病にかかりやすい長期航海者との食生活の違い、具体的には長期航海者がなかなか食べられない物に壊血病を抑える成分があると思ったのよ」
「……なんと! その視点は無かったですが、確かに言われてみれば陸で暮らす者との一番の違いは食事でありますな。それに、長期航海を終えた者たちが真っ先に食べたがるのが生の果物や野菜であることを考えると、それだけ身体がそれを欲していると?」
「……と仮定して果物を壊血病患者に食べさせたらすぐに体調が良くなったから、つまりそういうことよね。誰でも身体が水分を欲したら喉が乾くし、食べ物を欲したら空腹になるし、睡眠を欲したら眠くなるわ。壊血病患者が野菜や果物を欲するのもそういうことなのよ」
「おお、ジーザス! まさにその通りですな! 我らの身体は必要なものを欲するように作られている、いや、これは真理ですぞ! 私もかの聖パウロのごとく目から鱗が落ちたように感じましたぞ」
興奮気味に目を輝かせるトーマスにサミエラは苦笑する。
「オーバーね。……ただ、果物といっても熱を通したジャムでは効果がなかったから、果物に含まれる壊血病に効く成分は熱を加えると無くなってしまうものだと思うの。ワインを煮たら酒精が消えるのと同じね。だからこそ、熱を通さずに乾燥させて長く保つようにした干し果物こそ壊血病を予防するのに効果的だとアタシは思うのよ」
「ううーむ、なるほど。実に理にかなっておると私も思いますぞ。いやはや、サミエラ嬢のような若い娘さんからこれほどの事を学べるとは思いもしませんでしたな」
感心したように上機嫌で何度もうなずくトーマス。
そうこうしているうちに二人は教会に到着する。広い敷地に高い尖塔を備えたスペインの統治時代に作られた豪華な教会であり、その当時は金や銀をふんだんに使用した聖人や天使たちの偶像や宝飾がそこかしこに飾られ、新大陸方面における教化の中心地として多くの修道士たちを抱えて栄華を極めていたらしいが、街の支配権がカトリック国のスペインからプロテスタント国のイングランドに替わった時に持ち出せる貴重な物はすべて持ち去られてがらんどうの建物だけが残された。
現在は質素堅実を旨とするプロテスタントのロラード派エバンヘニート福音教会として運用され、かつての修道士たちの寄宿舎が孤児院として活用されている。
「ではトーマスさん、アタシは孤児院の方に用があるのでここで」
「ふむ。サミエラ嬢は孤児たちに勉強を教えておられるのでしたか。ここまでの会話でどのようなことを教えておるのか気になりましたな。もしよければ見学してもよいだろうか?」
「あー、アタシはいいんだけど、アタシの一存でトーマスさんを勝手に連れていくのは不味いかも。トーマスさんが牧師さんに許可を貰ってくれればいいと思うけど」
「ごもっともですな。では、私は先に礼拝堂の牧師に挨拶して許可をいただいてから合流することにいたしましょう。では、また後ほど」
トーマスがスッと右手の指先でシルクハットの
サミエラが礼拝堂の裏に回ると、そこには広い敷地を活用した畑が広がっており、シスター見習いたちや教会の使用人たちや孤児たちが働いていた。
「はぁい! 来たわよ!」
「あ、サミエラおねえちゃん!」「姉ちゃん来た!」「サミエラ様だ!」
サミエラに気づいた子供たちが一斉に農具を放り捨てて駆け寄ってきて飛びついてくる。
「あらあらサミエラ様、子供たちがすいません~。この子たち、朝からずっとサミエラ様が来るのを楽しみにしてて……」
困ったように駆け寄ってきて謝罪する牧師の娘であるシスター見習いの少女リリーにサミエラは軽く手を振る。
「いいのよリリー、気にしないで。今日はちょっと早く来ちゃったけど、この子たちもう連れていってもいいかしら?」
「大丈夫ですよぅ。この子たちはもう今日は仕事にならないと思うので~」
「悪いわね。これ、差し入れよ。みんなで食べてちょうだい。見た目は悪いけど味は問題ないから」
「わぁ! 嬉しいですぅ! サミエラ様の干し果物は人気すぎて私たちでは手が出ませんですから!」
干し果物を作る過程で取り除いた、サミエラ的には売り物にならないB級品の干し果物を詰めたバスケットをリリーに渡すと、リリーは年相応の笑顔ではしゃぐ。
「一人占めするんじゃないわよ」
「しませんよぅっ! 私をなんだと思ってるんですかぁ! それに、一人占めなんかしたらどんな恐ろしいことになるか……」
その状況を想像してブルッと震えるリリー。周囲に目をやれば他のシスター見習いたちや孤児たちの目がギラギラしている。一人占めは絶対しないけど、せめて自分の分だけは確保しようと決意する。
「あはは。冗談よ! さあ、子供たち、アタシと一緒に勉強の時間よ。他の子たちにも声をかけて集めてきてちょうだい」
「「「はーいっ!」」」
畑以外の場所にいる仲間たちにもサミエラの来訪を知らせるべく子供たちが走り去っていき、サミエラもその後を追ってゆっくりと歩いていった。
【作者コメント】
トーマス氏の正体やいかに?
教会の名前は適当ですが、ロラード派というのはかつて近世イングランドに実在していました。宗教改革以前、聖書はラテン語でのみ記され、一般の人々の読める言語に翻訳することは異端審問の対象となる重罪でした。そんな中、イングランドの神父で言語学者であったジョン・ウィクリフという人物が聖書は読めなければ価値がない、とラテン語から英語に翻訳して広め始め、彼の弟子たちがロラード派と呼ばれました。ウィクリフは異端審問の末に処刑され、ロラード派も散り散りになりましたがプロテスタント(抵抗)活動の草分けとして記録に残っています。
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