第5話 サミエラ・ゴールディはロッコ・アレムケルと交易所に行く
サミエラがまず感じたのは、鼻腔をくすぐる潮風の匂いだった。目を開くとあまりの眩しさに思わず目を細める。次いで聴覚が有効になり、多種多様な騒がしさが飛び込んでくる。
――ポンポコポポン……ポンポコポポン……
――ピュルリ~♪ ヒュルピュルリ~♪
どこからか聞こえてくるコンガやボンゴのリズムにケーナの音色の陽気なラテン音楽。
――カラァン……カラァン……
町中に響く教会の鐘の時鐘。
――にゃあ……にゃあ……
猫に似た鳴き声を上げながら飛び交う白い海鳥。
舗装のされていない剥き出しの土の地面は乾いており、往来の度に細かい土埃が舞う。
そこかしこに並んだ粗末な屋台には果物や魚やナッツや香辛料が並び、売り子が通りすがりの人間に大声で呼び掛け、客も負けじと大声で応じ、さながら口喧嘩のような値切り交渉が始まる。
昼間から酔っ払っている水夫たちが陽気に歌ったり踊ったりして、そこに女たちの高い笑い声が交ざる。
そんな、港に隣接した交易広場にある井戸の傍、買い物に疲れた人々が少し休憩できるように置かれているいくつかの木製のベンチの一つに彼女――サミエラ・ゴールディは座っていた。
肩より少し長い癖のある赤い髪は今はほどかれ、自然にウェーブがかって背中に流れている。健康的に陽に焼けた肌、整った顔立ちとわずかなそばかす、やや吊り目がちの意志の強さが感じられる碧眼。
この街の中流家庭で育った他の同年代の少女たちと同じようなカラフルに染められ刺繍の入った木綿のワンピース、流行りの可愛らしい木靴、貝殻を繋ぎ合わせたネックレス、そして熱帯の強い日差しから頭を守るつばの広い帽子。
これまで17年のサミエラ・ゴールディとしての記憶が奔流のようにどっと流れ込み……いや、思い出され、記憶を整理するためにサミエラはしばしの時間を必要とした。
「……ああ、そうね。アタシは貿易商人ジョン・ゴールディの娘としてこの街で育ったんだったわね。……そして、海で死んだ父さんの葬儀が終わり、今後の事を決める為に後見人のロッコさんとこれから会うことになってるんだったわ」
父の親友であり、片腕であった航海士ロッコ・アレムケルは数年前に船乗りを引退して、この街でサトウキビ農園を経営している。
今回、父の船がハリケーンで沈み、父一人娘一人であったことから天涯孤独になってしまったサミエラを助け、父の遺言に従って商会の後始末を全面的に取り仕切ってくれたのが後見人であったロッコだった。
彼の助けがなければ、年頃の美しい娘であり世間知らずであったサミエラはあっという間にコンドルのような周囲の大人たちの食い物にされていたことだろう。本当にロッコにはどれだけ感謝してもしたりない。
……マサムネとしての記憶と経験を得た今のサミエラはもはや世間知らずとはほど遠い存在になっているが。
サミエラの記憶にあるロッコのこれまでの行動からして、彼こそがサミエラの初期サポート役である信頼できる味方であるに違いない。とりあえず、ロッコの事は疑わずに信用して頼っていいだろう。
サミエラは、現在の自分の置かれている状況を整理し、これからどう動くのが一番いいかを検討し始めた。
「おう、サミエラ嬢ちゃん、待たせたか?」
幼い頃から聞き慣れた声に思考の海に沈んでいたサミエラが顔を上げれば、そこには予想通りロッコが立っていた。白髪の混じり始めた黒髪を後ろで一つに結び、海の男らしい逞しい体躯の40代の男。海賊との戦いで喪った左手首の先には義手がわりに鉄のフックを着けている。
「あ、ロッコおじ様。いいえ、待ってないわ。アタシもついさっき来たところよ」
「そうか。とりあえずここじゃなんだから場所を移そうや。交易所の中に部屋を借りてるからよ」
「ええ、わかったわ」
露店商が立ち並ぶ交易広場に隣接した交易所は、木造建築がメインのこの街では珍しい煉瓦とモルタルで造られたヨーロッパ式の立派な建物だ。
国家の枠組みを越えた商人たちの相互扶助組織である海事ギルドによって運用され、仕事の斡旋や厄介事の仲介や銀行としての役割も担っている。
そんな交易所内の商談用の小部屋にサミエラはロッコと一人の壮年の男性職員と共に入室した。
「ロッコおじ様、こちらの方は?」
「おう、こいつは古い馴染みでこの交易所の副所長のジャン・バールだ。俺同様、お前さんの親父さんにはずいぶんと世話になった信用できる人間だ」
「ご紹介いただいたジャン・バールです。ロッコ共々『自分に何かあったら娘を頼む』とジョンに頼まれていたのですよ。私はお嬢様に権利のある遺産の管理をしております」
「まあ、バール副所長、お手数をおかけいたしました」
「私はきちんと依頼料をいただいて、正当な仕事をしているだけですよ。さあ、こちらの席にお座りください。これからの事をお話ししましょう」
テーブルを挟んでこちら側にサミエラとロッコが並んで座り、向かい側にジャンが座ってテーブルの上にいくつかの書類を並べる。
「さて、サミエラお嬢様には、まずは海事ギルドに所属の商人として登録していただきます。あ、別に商売をしていただく必要はありませんよ。お預かりしているゴールディ商会名義の資金を運用する為には商人登録をした上で商会を継いでもらった方がなにかと面倒がありませんからね。それに、海事ギルドが所属商人の後ろ楯になりますので、なんらかの金銭トラブルが発生した時に頼ることができるようになります」
「登録しておきな。デメリットはねぇ。そもそも海事ギルドは誰でも登録出来るもんでもねぇんだ。登録の為にはすでにギルドに登録している誰かの推薦とギルド職員の承認が必要だから海事ギルド員というだけである程度の信用証明になる。今なら俺の推薦とジャンの承認の両方がもらえるからスムーズに登録出来る」
「分かったわ。バール副所長、説明を続けてください」
「はい。ギルドへの貢献度によって商人ランクが上がり、それはそのまま商人の信用度となります。本来はランク1から始まるのですが、サミエラお嬢様の場合はすでに大金を預けて下さっているので、その分も信用度に加算してランク5にて登録いたします。ランクが上がると優遇措置が増えますが、ランク5以上では交易所での両替手数料が無料になりますね」
「なるほど」
「ジャン、嬢ちゃんの資金を先に教えてやれ」
「あ、そうですね。では、こちらが現在お預かりしている資金の証文となります」
ジャンが差し出してきた羊皮紙の証文には、ゴールディ商会名義で20000ペソを預けている旨が記されている。
「ジョンの遺言により、自宅、倉庫、スループ船1隻を除く、商会の所有していたすべての資産を売却した資金から、商会に雇われていた人や取引先との清算を終わらせて残った金額がこの20000ペソです。これはかなりの資産となりますので、現金で置いておくよりもこのまま交易所の銀行に預けておいて必要に応じて引き出す方がいいでしょう」
「はい」
「交易所の銀行に預けられた資金には当然ですが金利が発生します。年利が3%なので20000ペソに対しては600ペソであり、月割りではその1/12である50ペソが発生することになります」
「普通に生きていくだけなら月に50ペソもありゃあ十分すぎるぐらいだ。預けている原資の20000ペソに手を付けなけりゃあ、嬢ちゃんは毎月金利の50ペソを貰いながら生活していけるってこったな」
なるほど、これが女性アバターの為の初期資金ボーナスなのね、とサミエラは内心で納得する。リスクのある商売に手を出さず、治安のいい街から出ないで気楽に生きていくことを望むならそれもできる、と。
もちろんサミエラがその選択肢を選ぶことはないが。
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