第6話 反発

 トントン――再びドアがノックされた。一志と話して気持ちが楽に成ったおかげで自然に声が出た。


「はい、どうぞ」

 ドアが静かに引かれて、スーツ姿の男が入って来た。以前、F女学院で会った南野健三の秘書の涌井だった。


 涌井は毬恵に対して深々と頭を下げた。

「何の用でしょうか?」

 言葉に刃を含んで、毬恵は訊いた。


「この度は中野様には、精神的にも肉体的にも大変な苦痛を与えてしまい、健三は父親として深く反省しております。本来ならばここに来てお詫びするのが筋ではありますが、マスコミの目などが光っており、大変申し訳ありませんが、私涌井が代理で伺った次第です」

 再び涌井が深々と頭を下げた。


「別に儀礼的な謝罪など来てもらわなくて結構です。もう分かりましたからお引き取りください」

 毬恵は頭に血が上って来た。

 抑えきれない怒りが黒い炎になって、胸の奥で燃え上がる。


「はい、心中をお察しすると、ぶしつけな訪問になってしまい、大変申し訳ございません。本日ここに参りましたのは、謝罪ともう一つ理由がございます。この度の件、中野様はあまり多くの人に触れられるのは、気持ちのいいことではないとお察しします。そこで、この件が公表されぬように、私共の方で尽力させていただきます。ですから何卒中野様におかれましては、本件を口外されないようにお願いする次第でございます」


 私のため? 自分の保身のためだろう? 毬恵はより一層、黒い炎が大きくなるのを感じたが、現実問題としては南野が死んだ以上、もうこの件は誰の記憶にも留めたくない。


「お話は分かりました。異存はありません。もうお引き取りください」

 涌井はこの病室に現れて以来、初めてほっとした顔をした。それもすぐに引っ込めて、元の厳しい表情に変わった。


「ありがとうございます。これはお見舞いです」

 涌井はアタッシュケースから取り出したやけに分厚いA4の封筒を置いて、急いで病室を出て行った。


「毬恵、ごめん、少し痛い」

 一志の声にハッとして手元を見ると、右手で一志の手を凄い力で握りしめていた。ハッとしてすぐに手を放したが、いつ握ったのかまったく意識になかった。

 それでも、もう二度と触れられないと思っていた男の身体を、無意識とは言え触れることができたのは、驚きだった。


「ごめんなさい、私夢中で……」

「仕方ないよ」


 一志は解放された左手をゆっくりと撫ぜている。みると爪が食い込んだのか、血が出ていた。


「血が出てる。ごめんなさい。絆創膏あったかしら」

「いいよ、すぐに治る。それよりお母さん、よっぽど疲れてたんだね」


 母の方を見ると、あんな騒ぎがあったにも関わらず、頭を壁にもたれたまま、依然として座ったまま寝ていた。


「心配かけたから」

「だけど今の話、お母さんにも話した方がいいね。どうせ秘密にするなら徹底的にしないと」

「うん」

「後はあのお金だね」

 一志の指さした先には涌井が残して行った大きな封筒があった。


「あれはお金なの?」

 毬恵が訊くと、一志は立ち上がって封筒が置いてあるテーブルに行き、封筒を取って来た。

 一志が封筒の封を開けると、帯封でまとめられた札束が五束出て来た。


「五百万ある」

「私、こんなお金要らない。まるで私がお金で……」

 悲しくて言葉が続かなかった。また泣きそうになる。


「慰謝料だよ。気にすることはないよ。それだけのことはされたんだ」

「でも受け取ると、私がお金で納得したみたいじゃない」


 毬恵は顔が強張っているのが自分でも分かった。これだけは断固拒否したいと思い、一志に返してくれるように訴えた。一志は困ったような顔をして、しばらく考えてから口を開いた。


「おそらく毬恵の意志だと言ってこれを持って行っても、向こうは絶対に受け取らないと思う。郵送で返したりしたら、他でしゃべるつもりじゃないかと、しつこく訪問してくると思う」

「それは嫌だわ。もう南野家とは関わりたくない。でもお金は受け取りたくないの。一志なら私の気持ち分かってくれるでしょう」


 毬恵の切実な顔を見て、一志はしばらくの間考えていた。


「じゃあ、このお金は寄付しないか」

「寄付どこに?」

「希望の光はどう? 基本的には手弁当で活動してるけど、被災地に物資輸送をしたり、支援活動で現地に行く交通費は、寄付に頼っている現状なんだ」


 希望の光と聞いて、毬恵の顔が曇る。

 やはり知っている人に事情を知られることは抵抗があった。


「何て言って渡すの?」

「鏡さんには正直に話して大丈夫だと思う。毬恵にとっても、これからの心のケアとして、専門家を紹介してもらった方がいい。もし嫌なら匿名寄付という手もある」


 毬恵はしばらく考え込んだ。

「分かった。そういう風に使えば、このお金も少しは意味があるものになるかもしれないわね」

 一志は喜びを隠さなかった。

「ありがとう、毬恵が前向きに考えてくれた気がしてホッとする」

 話がまとまったところで、漸く母が目覚めた。


「あら、一志さん来てくれたの。すいませんすっかり寝込んじゃって。毬恵ちゃん、なんだか顔色がいいわね。よかったわ。母さん少し安心した」

 毬恵の母は娘が起きたとき、どうやって慰めようか心配してたのだろう。娘が思いの外元気な様子を見て、安心したようだ。


「一志のおかげよ。あっそうだ、お母さん絆創膏ない? 私が一志の手を傷つけちゃったの」

「あら、ホントだわ。たいへん、今持ってないから、母さん売店に買いに行ってくる」


 一志がおかまいなくと止める間もなく、母はいそいそと病室を出て行った。

 あとに残された毬恵と一志は、思わず顔を見合わせて苦笑いをした。

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