第5話 解放
何度目の凌辱かもう分からなかった。躰は疲れ切って、下半身は痛くて何も感じない。ただ、毬恵の背中に覆いかぶさっている男は、快楽に溺れて飽きることなく動いていた。
手は拘束を解かれていたが、既に抵抗する気力は、根こそぎ奪い取られていた。終われば帰してもらえるのかも分からなかった。
ロープを解くのと引き換えに、白い錠剤を飲まされた。
飲まされてから、意志とは反対に躰が反応している。
もしかしたらホワイトドリームかもしれない。
もう、死にたい――毬恵の頭の中に絶望的な考えが過ったとき、突然男の動きが止まった。
今度は何をする気なのか、考える気もしなかった。感情のない人形に成りたいと思ったとき、異変に気が付いた。男が背中の上から動かないのだ。ぐったりと身体を密着させたままピクリともしない。
「どうしたの」
返事がない。
声を出してみて、静寂の世界にいることに気づく。
恐る恐る男の身体の下から抜け出ようとした。それでも男は咎めない。思い切って全力で男の身体から横に逃れた。反動でベッドから落ちる。男はうつ伏せの儘でベッドに横たわっていた。
疲れて寝てしまったのかもしれない――と思った。
それでも男の方を見る勇気はなかった。
しばらく床の上で跪いたまま、顔を伏せて考えていた――私の人生は今日で終わってしまった。もうこの男から逃れられない。
どのくらい時間が経ったか分からないぐらい、絶望と悲しみの中を漂っていたが、ふと何も音がしないことに気づいた。
男の呼吸すら聞こえてこない。
何か起きている。
毬恵はやっと顔を上げて男を見る決心がついた。
思い切って顔を上げると、そこにはこめかみに釘が刺さった南野が倒れていた。
その後頭部を見ながら、予期せぬ笑いが身体の奥から沸き起こって来た。
「ハハ、ハハハ、ハハハハハ――」
自分は狂ってしまったのかと思いながらも、笑いは止まらなかった。
声はどんどん高く大きくなる。呼吸が苦しくなって笑い続けられなくなり、笑うのを止める。
毬恵は大きく深呼吸して、次の瞬間、絶叫を上げた。
叫びながらドアを開けて裸のまま飛び出し、ガレージのシャッターを力の限りガンガン殴りつける。
すぐに母屋にいた者が駆け付けてきて、シャッターを開けた。
裸のまま毬恵は立ちすくむ。
駆け付けた一人がシャツを脱いで毬恵に渡す。
一緒に来た女が部屋の中を見て、大きな叫び声を上げた。
ガレージが開いてるので、彼女の叫び声は、近隣に響き渡った。
毬恵にシャツを貸してくれた者が、携帯で一一〇番通報する。
それを見て、毬恵はのろのろと渡してくれたシャツを羽織る。
屋敷からこの家の主である南野健三が出てきて、何の騒ぎだと、叫んでいる女に問いただすが、女も興奮してうまく説明ができない。
健三は横目で毬恵を見て、「武史!」と叫び部屋の中に入る。
今度は健三の低い絶叫が響き渡った。
それを合図としたかのようにパトカーのサイレンが聞こえてきた。
その音がだんだん大きく成り、屋敷の前で停まった。
パトカーの中から警官が出てくるのを見て、毬恵は意識を失い崩れるように倒れこんだ。
気が付くと病院のベッドの上だった。
なぜ自分がここにいるのかそれは分かっていた。躰の痛みが思い出したくない記憶を、次々に蘇らせる。
ベッドの横では、椅子に座ったまま母が居眠りをしている。昨夜は帰って来ない娘を心配して、きっと朝まで眠れなかったのだろう。
眠ってくれていて良かった。正直なところ、今は人と話すのが鬱陶しい。母が相手ならなおさら昨夜のことを気遣って、わざと触れないようにするだろう。しかしそれが逆に昨夜のことは現実だと思い知らせる。
自分はこれから男の人と普通に接することができるだろうか?
とてもじゃないけど、今は自信がない。
躰に刻み込まれた痛みと屈辱、自分が被害者になって初めて分かった。
これから時間が記憶を風化させて行くだろうが、いざ男性と正対したとき、思い出さずにいられれる自信がない。
それでも、あいつが殺されて良かった。
初めて遭遇した殺人現場だったが、凄惨な印象は全くなかった。
あいつが死んだと分かったとき、心の底から安堵の笑いが込み上げた。
自分が死体と一緒に居るのだと分かったのは、笑い終わった後だった。
病室の天井を見ながら、今日のゼミは休むと連絡しなくてはと思った。それはゼミに対する義務感からではなく、単になぜ休んだのか詮索されたくない気持ちからだった。
スマホはベッドの脇のキャビネに置いてある。手を伸ばしかけて気づいた。
母がここにいる以上、電話してないわけはなかった。自分の心配をいつもしてくれる優しい母だった。母もこれから自分と同じ苦しみを抱いて生きていくと思うと、また悲しい気持ちがこみあげてきて、涙が出た。
トントン――病室のドアがノックされた。誰かが来たようだ。医者か、看護師か、どちらでも今は話すのが億劫だった。
トントン――再びノックする音が響いた。寝たふりをしようか迷ったが、なぜか答えなければいけない気がした。
「はい」
重い声で返事をする。そろそろとドアが引かれる。
「どうして!」
現れたのはゼミに出ているはずの一志だった。
「昨日ちゃんと帰れたか心配だったんで、何度も電話とメッセージを送ったんだけど、出ないから今朝もう一度電話したんだ。そしたらお母さんが出て」
思わずキャビネの上に置いてあるスマホを見た。バッグから出ていたのは母が電話に出たからだ。
そして嘘がつけない母は、一志に本当のことを話したに違いない。
「入ってもいい?」
一志が遠慮がちに訊いてくる。ここまで来てもらって嫌とは言えなかった。それになぜか今は、一志のべたべたしない距離を置いた雰囲気を、自分が求めている気がした。
「いいよ」
一志がゆっくりとした動作で入ってからドアを閉めた。
「ゼミには風邪だと連絡したから心配ない」
「一度大学に行ったんだ」
「ああ、朝一で行って、佐伯さんがいたので、風邪だと告げると、二日酔いかなと笑っていた。それから忘れ物をしたと言って抜けて来たんだ」
そうだ、昨日は五人で飲み会だったんだ。佐伯さん、朱音さんとあれからどうなったんだろう――なんだかとても遠い記憶のような気がする。
不思議な気持ちがした。
ついさっきまで絶望に打ちひしがれていたはずなのに、一志の笑顔を見て心が軽くなったような気がする。
急に頭が回転を始めた。
「いろいろありがとう。でも学校はたいへんなんじゃない。南野さんが、あの……ネイルズマーダーに殺されたんでしょう」
一志は複雑な表情をした。少し困ったような顔をしている。
「それが、今朝の新聞にも、大学からも南野の話は一切なかった。まだみんな知らないと思う」
今度は毬恵が戸惑う番だった。南野は昨夜確かに死んでいた。
「おかしいよ、昨日確かに……そうだ、お母さんは何て言ってるの? 私のこと、警察は説明したんでしょう」
「ああ、最初の電話はそうだったらしい。ネイルズマーダーに殺された男性の傍にいたと」
「じゃあ、どうして何も報道されないの?」
それ以上は一志が人差し指を口に当ててきて、横にゆっくりと首を振るので、話すのを止めた。
一志は憂いを含んだ瞳で笑みを浮かべながら、毬恵を包むように見ている。
「きっと毬恵がいたことは南野健三の手によって伏せられたんだ。今は各所に根回しが行われていると思う。ネイルズマーダーの犯行までは報道されても、動機は不明となるんじゃないかな。でもこの件で毬恵が煩わされることはない」
毬恵は少し気持ちが明るくなった。事件が伏せられれば、大勢の人に自分の痛みが記憶されることは無くなる。
「お母さん、一志が来たのにまだ眠ってる」
「電話したとき、ずいぶん興奮していたから。きっとどうしたらいいかパニックになってたんだと思うよ。僕が大学関係は全部うまくやるからと言ったら、ずいぶん落ち着いたみたいだったよ」
「ありがとう」
考えてみたらこの事態に、母がうまく立ち回れるはずがなかった。一志から電話が来るまでは、ゼミへの連絡だけでも何度も迷って、躊躇していたに違いない。
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