第2話 毬恵の迷い

「乾杯!」

 朱音がはしゃぎながら音頭をとる。

 今夜は朱音の発案で、優の事件が解決したお祝いをすることになった。


 柴田の死でしばらくごたごたが続いたが、南野も井坂ゼミを去り、毬恵たちの目の前から消えた。前回のメンバー四人に加えて、愼也も招かれている。場所は朱音の提案で武蔵境の香菜館に決まった。


 前回はあんなに一志に拘っていた朱音が、今日は愼也の隣を離れない。

 愼也のことが気に成り始めている毬恵は、肉食系の朱音の接近は、綾の告白とは別の意味で、複雑な感情を掻き立てられた。


「謝罪とかなかったけど、とりあえず南野は去って行ったし、これで優も安心して仕事ができるわね」


 朱音はまるで井戸端会議をしているおばさんのように話している。だが、毬恵は自殺した柴田のことが気に成り、朱音のように無邪気にはしゃげなかった。


「柴田さんは一志の先輩なんでしょう。大学に入ってから知ったの?」

 毬恵の何げない問いに、全員が固唾を飲んで耳をそばだてる。


「柴田さんは高校の時のサークルのOBで、その頃から知ってるよ」

「えっ、何のサークル?」

「今の希望の光の前身となるボランティア活動のサークルさ。柴田さんは困っている人が放っておけなくて、豪雨とかで困った人達のために、休みの日を返上して救済活動に行ってた」


 意外な柴田の一面だった。

 そのサークルに一志が入っていたことも意外だった。


「もしかして一志も被災地とか行ってたの?」

「僕はそういうのには行かなかったな。どちらかというと、犯罪被害者のケア活動とかに参加していた。被害者支援センターに行って、広報活動の手伝いをしたり、募金活動に参加したりしたかな」

「そういうのしてたんだ。どうして興味を持ったの?」

「うーん、特別な理由はないけど、強いてあげればこの国の司法への疑問かな」


 全員法学部の学生だけに、一志の司法への疑問という言葉は、皆の耳目を一斉に集めた。

 そんな皆の興味を代弁して毬恵が訊いた。

「どういうこと?」


「日本に限らず民主主義の発達した先進国って、加害者人権に対して尊重し過ぎてるよね。死刑撤廃とかいう連中は最たるもんで、いったい被害者の心情はどこに行ってしまうんだろうと思うんだ。逆に言えば、だから犯罪は無くならない。少年法なんかもそれを助長してると思う。そう考えると被害者の人たちのホントの気持ちを知りたくなったんだ」

「それでどうだったの」

 深刻な話に、毬恵の声はトーンが落ちてしまった。


「悲惨なもんさ。そこには悲しみしかなかった。加害者を憎めるならまだいい方さ。どこまでも深い悲しみしか残っていない人がほとんどだった。それにレイプぐらいじゃあ死刑には絶対ならないだろう。そうなると被害者女性は、釈放された犯人が、また自分の前に現れる恐怖と闘いながら生きて行かなきゃならない」


 何気ない問いかけが、とんでもない思い話を引き出してしまった。毬恵の心に闇が広がる。

 さっきまで明るくはしゃいでいた朱音が黙り、愼也が難しい顔で何か考えている。優に至っては、必死で何か話そうとしているが、言葉が出ない様子だ。

 場が暗くなったことを気にしてか、一志が笑いながら言った。


「申し訳ない。そういう話をするつもりじゃなかった。それより柴田さんだよ。あの人、毎週災害地ボランティアに行ってるもんだから、酷い土方焼けが治まらなくて、二の腕なんか染みがいっぱいできて、酷いもんだった。でもその染みを僕ら後輩に見せて、これが俺の勲章だなんて言ってた」


 一志の言葉に、すかさず朱音が乗っかった。

「いが~い、それってドラマなんかに出てきそうな無茶苦茶いい人じゃない」

「そう、でも女の子にはあまりモテない」

「あたりー」


 朱音の溌溂とした声で、場は何とか持ち直した。


「でも自殺しちゃった」

 呟いてから毬恵はハッとした。どうしても、そこから抜け出せない。せっかく持ち直した場が、また少し暗くなった。


「僕は柴田さんに感謝してる。今の一志の話を聞いて、余計にそう思った。僕にとっては南野にされたことは、まさしく天災にあったような感じだった。それまで努力して来たことを根こそぎ奪われても、何の抵抗もできなかった。柴田さんは他の仕事もあったと思うのに、僕のために頑張って救ってくれた。一志が今言った、災害ボランティアをしていた柴田さんなんだと思う」


 優は必死で自分の気持ちを説明した。

 きっと優にとっては、南野にどんな罰が下ったとか、研究成果が自分の手に戻ったか、そんなことよりも、自分のために親身に成ってくれた人の存在が、嬉しかったのだろう。


 毬恵は涙が出そうになった。

 井坂ゼミに入ってされてから、地味ながらこつこつ成果を積み上げていった優のことは、同級生だけに一番よく知っている。

 理不尽な仕打ちをされたころ、怒りや悔しい感情よりも、一人だけ理不尽な仕打ちに遭っている、孤独感の方が大きかったに違いない。

 柴田の行動はそんな優の孤独を埋めたのだ。


「そうよね。亀淵君の気持ちは伝わって来たわ」

 朱音が思わず隣の優を抱きしめる。思わぬスキンシップに、慣れてない優は顔が真っ赤に成った。


「おいおい、酔っぱらったからって、そういうことをするなよ。亀淵君が困ってるだろう。可愛そうだから離れろよ」

 愼也が思わず亀淵を庇って朱音を引きはがしにかかる。


「何よ、こんなきれいなお姉さんに抱きしめられたんだから、亀淵君だって嬉しいわよ。あなたもしかして焼いてるの? あなたには梨都がいるでしょう」

 梨都の名を聞いて、毬恵の心はざわざわし始めた。

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