第六章 狂気
第1話 正義のありか
「君たちは組織に対する報告義務をどう考えているのかな?」
陰湿で粘りつくような声だった。
青木は加藤と対するとき、いつもこの声に不快感を覚える。
ここは捜査本部がある新宿警察署の一室で、加藤が自らの専用個室として使っていた。完全防音で、壁は天井と床下を貫き、部屋の外から中の話を聞くことはできない造りになっている。
青木と静香は加藤に呼び出されて、この部屋に入った。
呼び出された理由は分かっていた。先日、希望の光で託されたホワイトドリームを、静香の学校の先輩である、調布署の高橋警務部長に預けたからだ。
高橋警務部長は、キャリアらしい頭のクリアな人で、静香の話を誤解なく、極めて正確に理解してくれた。おかげで、文彦は釈放され、違法薬物販売の容疑で、古瀬勝悟に取り調べの手が入った。
「私たちは、連続殺人犯の捜査チームなので、事件に関係ないことに関して、報告義務はないと判断しました」
静香が強い言葉で反論したが、加藤は特に怒った様子は見せなかった。
「それは違うでしょう。希望の光はネイルズマーダー事件と、深く関わっています。少なくとも被害者に遺恨を持つ者が、全てこの会の会員であるという事実は見逃せません。そこからコンタクトされたのであれば、指揮官である私に報告するのは当然です」
以前希望の光に訪問した足で、峰岸のところに向かい、そこで警察の不正について相談したとき、峰岸の答えは明瞭で、警察に不正があるなら、上層部に忖度する必要はないと明言された。
峰岸は不正を暴くためのマスコミ利用についても言及した。
出所の分からないネットのような匿名利用は、根本的解決にならないとして、やるなら証拠をきちんと固めて、正々堂々と公表しようと言われた。
そのために峰岸は、付き合いの長い新聞記者の連絡先を教えてくれた。
峰岸は自ら青木の上司である蜂谷や坂本、そして三井にまで協力を要請している。峰岸の言うことなので、皆快諾してくれた。
青木は腹を括っている。
意を決して加藤に対し反論しようとしたとき、加藤の目は爬虫類のような光を帯びてきた。
「君たちが峰岸管理官と通じていることも、我々は知っている。現在の指揮官に報告しないで、どうして元捜査本部のリーダーを訪ねる必要があったのかな」
峰岸との関係を指摘されて、一瞬青木は怯んでしまった。
「峰岸さんは、ネイルズマーダーの元指揮官というだけではなく、人格や考え方について尊敬できる方です。ですからある一部の警察の不可解な行動について、今後どう逮捕すべきか意見をいただきに伺ったまでです」
静香は峰岸との関係を指摘されても、まったく動じることなく、警察の不正に関して堂々と口にした。
組織の圧力に屈しない静香の態度に、加藤は初めて嫌な顔をした。
「不可解な行動とは、どういうことか、私にも教えてくれないか?」
「それは管理官が一番ご存じなんじゃないですか?」
静香は一歩も引く気はないようだ。青木は冷や冷やしながら、駒場の店で飲んだ夜を思い出した。
「どういう意味だ。私には覚えがないが」
「では、言わせていただきます。管理官は篠田愛美という女性から、大平清司の犯罪に関する証拠品を預かって、握りつぶしたことはないですか」
静香の追及に加藤は、一瞬眉をひそめたが、すぐに反論した。
「そんな記憶はないが」
「それはおかしいです。篠田愛美から聞いた早見という刑事の人相は、あなたにそっくりです。ちなみにあなたの顔写真を見せたところ、間違いないと彼女は言いました。それでも会ってないと仰るのなら、彼女と会われてみますか?」
「意味のないことは止めたまえ。会ったとしても、私は知らないのだから」
青木はこの核兵器を打ち合うような応酬に、寿命が縮む思いがした。それでも、自分は見届けなければならないと思い、足に力を込めて踏ん張った。
「私は警察の不正に関する調査は止めません。ネイルズマーダーは殺人の対象を、警察が隠蔽した犯罪者に切り替えています。こちらが闇を抱えたままでは、とても逮捕できるものではありません」
加藤は静香と睨み合った後で、微かに笑った
「そうか、もういい、捜査に戻りたまえ」
驚くべきことに、加藤は止めろとは言わず、退室を許可した。
だが、ここに来て青木は加藤に対し、どうしても確認したい感情が生じた。
「加藤管理官個人としては、警察が権力者のために不正を犯すことを、どのようにお考えでしょうか?」
坂本の質問に対し、加藤は先ほどのような表情の変化はなかった。むしろ先ほどの追及時より堂々としていた。
「私は警察の本分は治安の維持にあると考えている。そのためには、政治家が国民から、不信を買う事態は絶対に避けなければならない。そのためにはやむを得ぬ行為だと考える」
加藤は一歩も引かずに言い切った。
「しかし、法の下で権力を振るう以上、国民に対する裏切りとも言えます」
「そこは異論がある。そういう政治家を選んだのは国民なのだ」
「そうは言っても、三権分立である以上、我々は司法として行政、立法とは独立した立場でなければならないのではないですか」
青木の正論に対し、加藤は苦笑した。
「三権分立も政治の安定があってこそだ。まあ、いい。私の考えはここから変わることはない。今は君たちも私も、あるべき姿から逸脱して行動している。私は君の言う権力体制の理想論から外れているし、君たちも組織のあるべき姿からからは外れている。だが、そうなってしまうのは、どうしようもない現実があるからこそだ。現実を正しく把握している限り、私と君たちのどちらが正しいとは言えないのではないか」
思っても見ない加藤の言葉だった。聞いた青木だけでなく、静香の胸にも届いた気がした。
「分かりました。管理官の言葉は記憶の中から決して消しません」
あえて、言葉に従うとはいわなかった。敬礼をして部屋を退室した。
「そこまで言い切ったか」
青木は加藤の部屋を退室後、坂本と蜂谷にだけ、加藤の言葉を伝えた。
静香がコメントを付け加えた。
「全体主義が勢力を拡大する東アジアの政治状況が、強い危機感をこの国に与えた結果かもしれないですね。自由圏国家は情報流通に制限がない分、政治基盤は薄氷とも言えますから、秘密警察の使命感は、民主的な考えを捨てざるを得ないのかもしれません」
「そこは峰岸さんも考えて、敢えて我々に道を示したのだろう。加藤管理官も現実を正しく見ることは大事だ、と言っておられる。我々はネイルズマーダー逮捕に向けて全力を尽くすのみだ」
蜂谷はもう覚悟を揺るがせない。
「そのネイルズマーダーは、本当に逮捕しなければならない相手なんですかね」
青木がつい迷いを口にした。
「逮捕しないのならば、我々は警察手帳を返納するべきだ。警察として活動できるのは、法の支配下にあるからで、ネイルズマーダーの行為は法を犯している」
ここまでくれば覚悟の問題なのだと、坂本は言った。少なくとも加藤からは覚悟を感じられた。そして峰岸も覚悟を示している。
「ネイルズマーダーは、警察の不正について、かなりの情報を持っていると推測されます。もし、私たちが逮捕できなかったら、公安の手で射殺される可能性も否定できません」
静香は恐ろしい予測を口にした。
「俺も腹を括りますよ」
青木はまだ迷いが残っているが、それもいいと坂本は言った。悩みながら行動するのは、若者にのみ許された特権だ。
「では、次の行動だが、静香さんは何をするべきだと思う」
「捜査本部は殺された大平を除き、残り三件の警護方針を変えていません。ここ二件の傾向から言っても、残り三件の警護は妥当だと思います」
「だが、相変わらず警護の要因は知らされていない。前と同じ警護方法では、正直守り切れる自信がありません」
青木にとっては血を吐くような言葉だった。ネイルズマーダーの侵入能力は、レーダーなどの軍事的装備がなければ、阻めないように思えた。
「現在までの事件を分析すると、ネイルズマーダーがターゲットを定めるための情報は、全て事前に希望の光に集まっています。事件との関係の有無は別として、今できることは、この残りの三件の関係者が希望の光にいるかを、調べることしかないと思います」
静香の提案は坂本の考えと一致した。
「それが一番理に合ってますね。では行きましょう」
もはや希望の光だけが最後の手掛りだった。
やれることを迷いなくやる。
青木は決意を胸に捜査本部を後にした。
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