第8話 理系男子
ソファに座って全体を見渡すと、サイドボードに父親と三人の写真が飾ってあった。太い眉の凛々しい感じの父親だ。文彦は母親似のようで、細い顎とスーッと通った鼻梁が、どこか神経質そうな性格を連想させた。
志野は二人にコーヒーを出すと、向かいに座って深々と頭を下げ、今日の訪問の礼を述べた。
「そんなにかしこまらないでください。私たちは鏡からの依頼で、事件の真相を調査するのと、これからの裁判に備えて、志野さんの心のケアをするために来たんです。私たちを信じて、肩の力を抜いてください」
綾の励ましに、志野は頭を上げた。まだまだ表情は硬いが、夫を三年前に亡くし、一人息子が拘留されている状況では無理もない。
目にはクマが出て、頬も削げていた。きっとこの六日間、食事もろくに取っていないのだろう。
「早速で申し訳ないですが、まずは文彦さんが逮捕されたときの状況から、教えていただけますか?」
志野は綾の依頼に快く応じて、正確に思い出すためか、軽く眼を閉じて話し始めた。
「文彦が逮捕された日、土曜日だったので私は仕事が休みで家に居ました。午後二時頃、私が洗濯物にアイロンをかけていたとき、刑事さんが二人訪ねて来て、文彦は家に居るか訊いてきました。そのとき文彦は二階で勉強していましたが、私が呼ぶと気軽に降りてきました。文彦の顔を見ると、一人の刑事さんが文彦に向かって、『婦女暴行の容疑がかかっているので、署迄同行してください』と言いました」
そこまで話して、志野は目を開けた。嫌な記憶なのだろう、額に薄っすらと汗が滲んでいた。
「志野さんが文彦さんを呼んだとき、何て言って声を掛けたのですか?」
「普通に刑事さんがいらしたわよと呼びました」
「刑事の来訪に心配にはならなかったのですか?」
「そのときは、文彦が悪いことで疑われるなんて、夢にも考えてないので、何か別の話を聞きたいのかぐらいに思いました」
本来おっとりした性格なのだろう。冤罪という危険が自分たちに及ぶことなど、露ほどに疑っていない。おそらく文彦が連行された今も、何かも間違いだと思っている。
「文彦さんは刑事が来たと聞いて、警戒するような素振りを見せましたか?」
「いいえ、軽い足取りで階段を下りてきて、いつも通りの顔で刑事さんに挨拶しました」
「警察に向かうときは、どんな様子でしたか?」
「私も動揺してたのでよく覚えてないですが、文彦も良く状況が分からないような顔をしていて、促されるままパトカーに乗ったと思います」
犯罪とは縁遠い愼也だが、そこまで聞いたところで文彦はやってないと直感した。
「文彦さんに掛かった容疑の内容について、分かる範囲で教えてもらえますか?」
「はい、文彦の同級生で松岡愛華(あいか)さんというお嬢さんがいるのですが、文彦が逮捕された前日の金曜日に、松岡さんが友達とカラオケに行って、その帰り道で男性に襲われたそうです。松岡さんは、襲った男性は文彦で間違いないと言ってるらしいのです」
痴漢と言うよりも婦女暴行罪だ。
しかしいつ出てくるか分からない同級生を、待ち伏せするとは考えにくい。
となると、偶然出会ったということになるが。
ここで愼也はずいぶん引っかかったが、綾の質問は続く
「襲われたのは何時ごろですか?」
「カラオケ店を出たのが十時過ぎで、警察に通報があったのが午前一時だと言うことでした」
「文彦さんはその時間どこにいたのですか?」
「夫が亡くなってから文彦は、金曜日はいつも早く家に帰って、私のためにご飯を作ってくれるんです。その日も文彦が作ってくれたご飯を食べて、その後は二階で勉強をしていたと思います」
「食事はいつ食べ終わったのですか?」
「私が仕事から戻ったのが七時で、それから一時間ぐらい食事して、お風呂に入ってから、九時にはテレビを見てました」
「では九時からは文彦さんはずっと二階にいたんですね」
「そうです」
「その間、一度も文彦さんと会っていないのですか?」
「警察にもそう聞かれたんですが、会ってないです。私も疲れていたので十時には寝たので」
なるほど、もし一階の志摩に気づかれずに外に出ることができれば、文彦のアリバイはないことになる。
「松岡さんが襲われたのはどこか聞いていますか?」
「自宅近くだと聞いてます」
「松岡さんの自宅は分かりますか?」
「詳しくは分かりませんが、調布駅の方だと聞いてます」
「志野さんは松岡さんについて、文彦さんから話を聞いたことがありますか?」
「いいえ、何も」
「そうですか……」
綾が質問を終える。
文彦の容疑に関わる情報は、志野からはほとんど出てこなかった。愼也は綾と志野のやりとりを聞いているうちに、文彦の人そのものが知りたくなった。
「あの本人不在のところ恐縮ですが、文彦君の部屋を見せていただけますか?」
「もちろん結構です」
志野が立ち上がって、文彦の部屋へ案内する。
文彦の部屋は、男の部屋とは思えないぐらい、きれいに整理整頓されていた。
几帳面な性格なのか、本棚の本が本の高さに合わせて、きれいに並べられている。机の上もしっかり片づけられ、ノートや筆記用具が散乱していない。
「しっかりしてますね。僕が高校生のころは、部屋中に脱ぎ散らかした服があったり、机の上なんて天板が見えなかったものです」
「ええ、私も文彦の性格には助かっています。部屋の掃除もあれを使って自分でするんです」
志野の指が差した先には、立て掛け式の掃除機が置いてあった。愼也は掃除機の隣のベッドに目を向けた。
「もしかして、ベッドの準備も自分でするんですか?」
「ええ、起きたらすぐ布団をきちんと直さないと気がすまないみたいです。シーツの洗濯なんかも自分でするんです。きっと私に負担を掛けないように気を使っているんです」
志野はそんな文彦の様子を思い出したのか、愛おしそうに微笑んだ。
ベッドボードの棚の上に、数枚の写真がピン止めされた、コルクボードが立て掛けられてあった。文化祭の写真らしく、写真には何人かの友人が一緒に写っていた。
「この男の子は何枚も一緒に写っていますが、志野さんはご存じの方ですか?」
志野は写真を見てすぐ分かったようだ。
「文彦の中学時代からのお友達ですわ。名前は市川幸三郎(こうざぶろう)君です。うちにもたびたびやって来て、泊まったりしてました。事件のことを心配して、私に電話をくれた優しい子です」
「ということはもう学校内でも、だいぶ話が広まってるんですね」
「ええ、被害者の松岡さんは、もう学校に登校しているみたいです」
「少し話を聞いてみたいですね。市川君と連絡を取ることはできますか?」
「はい、ちょっと待ってください」
志野は連絡先を探しに一階に下りて行った。
「それにしてもシンプルな部屋ね。アイドルの写真とか貼ってないし、趣味はないのかしら?」
「本棚には趣味らしい本がありますよ」
愼也は本棚の下段を指さした。そこには雑誌ニュートンがびっしりと並んでいた。その上の棚には、宇宙関係の本がずらっと並んでいる。
「素敵、理系男子ね」
「そうですね。相当好きみたいですね」
志野が戻って来る。
「これが、学年の連絡名簿です」
綾が受け取って電話すると、スリーコールでつながった。
「はい、市川です」
「清水と申しますが、幸三郎さんは御在宅でしょうか?」
「僕が幸三郎です」
「あっ、初めまして、私は鏡法律事務所でアシスタントをしています。この度鏡が谷山文彦さんの弁護を引き受けることになりまして、事件について調査をしています。もしよろしかったら少しお話を聞きたいのですが、今日お会いすることは可能でしょうか」
「いいですよ、どこに行けばいいですか?」
「今、谷山さんのお宅に来ています」
「じゃあ、今から行きます。自転車で十五分ぐらいなので」
綾は目で志野の承諾を取ってから、待っていますと答えて電話を切った。
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